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泡沫の小集団・信徳舎の活動とその特質

藤井麻央氏
二-二. 高橋正雄

高橋正雄(1887-1965)は、岡山県後月郡高屋町(現井原市)の金光教を信仰する家に生まれる。金光教は黒住教、天理教と共に幕末三大新宗教とされるが、当時は新興の宗教であり、父・高橋茂久平は金光教の一派独立を担った佐藤範雄の一番弟子であった。その佐藤が創設した金光中学本科を卒業後、早稲田大学に入学する。文学部哲学科を卒業後、約一年の同学研究生を経て帰光し、1910(明治43)年に金光教教師となり、教義講究所や宣教部で業務の傍、機関紙『金光教徒』等の編集に関わる。

1916(大正5)年頃から『金光教徒』等で、自らが「罪のかたまり」であることを表白するようになり、1917(大正6)年4月、一燈園の創始者である西田天香らと面会した約一週間後に不品行を犯したことで、決定的に行きづまる。食べずに蒲団をかぶって三日程過ごす中、「それまでの自分というものがたたきのめされてしまい、砕き去られてしまいまして、なんにもなしになってしまって、どうにもこうにも仕方がなくなって、もう自分からは生きようとしまい。どんなことでもできることならさせてもらうと、それよりほかはない」という考えに至ったと高橋は記している1313高橋正雄「信と生活との具体的関係について」『一筋のもの』篠山書房、1929年(高橋正雄『高橋正雄著作集第3巻一筋のもの』高橋正雄著作集刊行会、1967年、80-81頁)。また、同じく『高橋正雄著作集第3巻一筋のもの』所収の高橋正雄『素』篠山書房、1927年も参照。。そんな時に、妻から「起きて下さい」と言われたことで、「私が起きることがそんなにみんなのためになることなら、すぐ起きよう。」と思い、起き上がり座ったことが、高橋のその後の「心持ちの調子と行いの姿」となる。

これ以降「新たな生活」を始め、金光教の要職を辞して、一燈園の路頭生活にも似た他家の掃除や、依頼された執筆・講演の日々を過ごす。本城と照峰と出会うのはこの時期であり、1929(昭和4)年に創刊される高橋の個人雑誌『生』とその誌友会的な生の会には、信徳舎の関係者も関与が確認できる(例えば、図二の説明を参照)。

1934(昭和9)年に金光教において「昭和九・一〇年事件」と呼ばれる管長をめぐる大きな内紛が起きると教監(管長補佐、本部事務担当)に推挙され、事態の収拾にあたる。戦後も教監や金光教学院長等を歴任し、1965(昭和40)年に死去、教葬が行われる。

以上のように、高橋は教会を中心とする金光教の活動とは異なる独自の活動を展開したため、一部では異端視する見方もあった。一方で、金光教において最も重要な「取次」という宗教伝統に基づく教祖像と教団論を確立して、教監として教団の危機を収める重要な役割を果たしたことから、その経歴は明らかにされている部分が多い。百冊を超える著作のうち主要なものは『高橋正雄著作集』(全六巻、高橋正雄著作集刊行会、1966-1969年)に収録され、雑誌『生』等は金光図書館が所蔵している。また、高橋の精神経過を詳細に明らかにしながら、その教祖論と教団論の展開を論じた佐藤光俊の研究1414佐藤光俊「高橋正雄における信仰的自覚確立への過程について―信念模索期を中心として」『金光教学』23号、1983年、佐藤光俊「高橋正雄における信仰的自覚の確立と展開―信念の確立と立教神伝解釈の教団論への展開について」『金光教学』25号、1985年。や、金光教における「取次」という救済の業を中心とする教団論の形成について高橋を軸に論じた福嶋信吉の研究1515福嶋信吉「死んだと思うて欲を放して神を助けてくれ―金光教における教団論の形成と宗教伝統の革新」島薗進編『何のための〈宗教〉か?―現代宗教の抑圧と自由』青弓社、1994 年。等がある。しかし、本稿で明らかにする信徳舎の活動をはじめとする金光教の外における活動の実態と、それが高橋の思想や実践に与えた影響については未解明となっている。

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