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泡沫の小集団・信徳舎の活動とその特質

藤井麻央氏

次に、本城と照峰の出会いは、二節でも述べたように創刊間もない『信徳』を照峰が偶然手にしたところから始まる。『信徳』は、照峰にとっては関係のない「救い」「六字の謂われ」「仏凡一体」といった真宗の言葉が並び、田舎臭く非芸術的な雑誌であるにもかかわらず、「紙面に躍るある力に威圧」されてしまう。雑誌で紹介される「丸の裸で生きられる、涙出すより汗を出せ」、「来れ、悩める友よ、共に泣き、共に笑わん」の標語と共に豆腐売りをする本城の姿から、「葬式法事の請負業」や「金持ちの走狗」である当時の宗教界への悲憤慷慨の気持ちを抱く。さらに、本城の「私の宗教」の語りに大いに感心する。

そうだ、私の宗教でなくてはならない、禅宗とか、真宗とか、日蓮宗とか、仏教とか、基督とかではなくて、私の宗教でなくてはならない、自分は沢山の術語を知っている、仏教はこうだ、禅宗はああだと知ったげな顔をしているが、私の宗教はこれだ、と他人の前で堂々と言い切れる何がある?なさけない奴だと自分を嘲り見ました2323照峰馨山『転身の一路』篠山書房、1932年、167頁。

こうして『信徳』を通じて本城に感嘆した照峰は本城と手紙の往復を続け、本城と対面を果たし、自坊に『信徳』の印刷所までつくる。周囲が、照峰は本城に惚れ込んでいた2424服部宜啓「無煩悩」『正受』1932年2月号。服部は同じ宗派の師兄である照峰が本城に入れ込むことに反発を覚えていたが、本城と対面を果たし「信心をのみ専一に物語るその熱烈なのに驚いた」。その後、信徳舎や高橋の生の会の常連となった。と表現するに相応しい行動力を発揮する。

最後に、高橋と照峰の出会いは、1924(大正13)年の春に尾道商業会議所で開かれた林四郎左衛門という人物の追悼会である2525高橋正雄「引導を渡し合った仲」『正受』1932年2月号、高橋正雄『声』新生舎出版部、1926年(高橋正雄『高橋正雄著作集第1巻 道を求めて』高橋正雄著作集刊行会、1966年、256-264頁)。。林は尾道に流れ着いた身寄りのない老人で、本城と高橋とその周囲が手をかけて、最後は高橋宅で亡くなった。追悼会では、真宗と禅宗と金光教という組み合わせで講演会が催され、この場で本城が高橋と照峰を引き合わせた。その後、高橋と照峰は信徳舎の他、高橋の生の会や更生社(四節参照)等の数々の活動を共にすることになる。なお、この追悼会の契機に尾道求道会という活動が生じていることを付言しておきたい。この会についてはほとんど資料がないが、尾道の商人であった安保幸一(浩々荘主)が主宰していたもので、西田天香、足利浄圓、金子白夢、川村理助、暁烏敏、柳原舜祐等、宗派にこだわらず「生活というものに多大な関心を持って居られる人々」を招聘して話をきいたり、一時期は無償奉仕の活動をしていたようである2626「追憶浩々荘主」及び「無賓主言」『正受』1938年7月号。。照峰や高橋は尾道求道会の常連となり、また、求道会に出入りする人々は信徳舎の活動にも関与する等、尾道求道会と信徳舎は重なり合う部分を有していたと考えられる。

以上、本城、高橋、照峰の出会いを見てきたが、地域も宗派も異なる者たちが互いの動向を知る契機は、雑誌や新聞といった活字メディアによりもたらされていた。このことは、明治期以降の活字メディアの流通が、教団の枠を越えた集まりを可能とする社会的契機の一つであったことを示している。そして、彼らは手にした誌面に対して、自らに染み込んだ宗教とは異なる言説に多少の違和感を覚えつつも2727高橋も『信徳』を読んだ感想として、清沢満之の言葉を引きながら、「超道徳、超習俗の信味を表現されてあるのが、全くは腑に落ち兼ねたのを覚えて居ります。」と残している(高橋正雄「引導を渡し合った仲」『正受』1932年2月号)。、それを乗り越えてしまうほど心を動かされ、対面を果たし、活動を共にするに至っている。本城、高橋、照峰の関係性について、「他のものには解らないことが、三人には解り合うのだ」という心持ちを本城が抱いていたようだと照峰は残している2828照峰馨山『転身の一路』篠山書房、180-181頁。。しかし、三人が解り合ったこととは何か、彼らの著作において明言されていない。そこで、帰属する宗教の異なる者たちが強い連帯感を持ちながら活動を共にすることを可能にした個人的契機ともいえる彼らの志向について、三人の結節点となった本城を軸に考えてみたい。

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