泡沫の小集団・信徳舎の活動とその特質
照峰馨山(1890-1943)は、愛媛県越智郡上浦町(現今治市、大三島)の臨済宗佛通寺派西光寺に第一九代として生まれる。島の尋常小学校、高等小学校を経て京都の学校に出て、その後、東洋大学で哲学者・得能文に学ぶ。二五歳まで東京に居た後、大徳寺での三年間の修行を経て、西光寺住職となる。
僧堂を出て生活をするようになって「仏祖不伝のお悟も自分に取っては昔の小判程の値もない事」に立ち至り、また、禅宗は「宗教としては、余りに冷たすぎる」と感じる中、創刊間もない本城徹心の雑誌『信徳』を偶然手にする1616照峰馨山『転身の一路』篠山書房、1932年、162-163頁。本城は富士川游の雑誌『法爾』の県下誌友名簿に掲載された人に『信徳』を送付していたようである(ただし、照峰は『法爾』は見本を見ただけで購読していなかった)。。そして、本城を「有り難い真実の人」として、本城と手紙の往復を続け、1922(大正11)年秋、西光寺に本城を招いた会を開き、本城と対面する。翌年から『信徳』に寄稿するようになり、1925(大正14)年からは西光寺に印刷所を設けて西光寺内信徳舎を名乗り『信徳』の発行を担う。高橋とは本城を介して、1924(大正13)年に出会っている。
1930(昭和5)年、幼い息子二人を相次いで亡くす。この体験を1932(昭和7)年刊行の『転身の一路』に記す。照峰は、奈落のどん底につき落とされた時、「もう既に生きようなんて思わなかった。どうにでもなれ、 なるに任せよう と、自(おのずから)からなる力の前にわしを提供した」、すると「障りなきひとすぢの道が発見されたというか、寂光が、行く手を示してくれたというか、兎に角、何物もどうする訳に行かないある力を感じ知った」と記している1717照峰馨山『転身の一路』篠山書房、1932年、50-53頁。。叩き壊され、砕かれた所に新しい自己が生れるその有・無、滅・不滅を、仏教やキリスト教等の言葉に探りながら自らの考えを記した『転身の一路』は版を重ねた。その読者の一人にキリスト者・宮崎安右衛門がいる。『転身の一路』は宮崎に「空があるがままの(現実相)色」となる新たな生活をもたらす転機の体験をもたらした1818杉瀬祐「「転身・回心の岐路」―宮崎安右衛門覚え書(その二) 」『論集』31(2)、1984年12月。。1933(昭和8)年に宮崎と照峰は対面して以降、宮崎は信徳舎の活動にも関与するようになり、高橋とも親しい間柄となった。
照峰は、『転身の一路』以降の短編等をまとめた『無中に道あり』(1941年)の他、禅に関するものとして『盤珪の日本禅』(1941年)、『捨身の白隠』(1942年)等も出版している。1943(昭和18)年に死去、当時の宗派の最高の僧位をおくられる。
以上は、照峰の『転身の一路』(篠山書房、1932年)を基に、『愛媛県上浦町誌1919上浦町誌編さん委員会編『愛媛県上浦町誌』上浦町役場、1974年。』等から補いながら記述したが、本城同様にその足跡を残すものは多くない。しかし、西光寺内には信徳舎の印刷所こそ残されていないもの、図一に写された本堂はほとんど変わらない姿を留めており、四七号分の『正受』(『信徳』の改題後の雑誌)が残されている。