PR
購読試読
中外日報社ロゴ 中外日報社ロゴ
宗教と文化の専門新聞 創刊1897年
2025宗教文化講座
PR
2025宗教文化講座 第22回「涙骨賞」を募集
第21回「涙骨賞」受賞論文 本賞

泡沫の小集団・信徳舎の活動とその特質

藤井麻央氏

  1. 一例をあげれば、山本伸裕『「精神主義」は誰の思想か』法蔵館、2011年。
  2. 岩田文昭『近代仏教と青年―近角常観とその時代』岩波書店、2014年、碧海寿広『近代仏教のなかの真宗―近角常観と求道者たち』法蔵館、2014年。
  3. 赤江達也『「紙上の教会」と日本近代―無教会キリスト教の歴史社会学』岩波書店、2013年。
  4. 古荘匡義『綱島梁川の宗教哲学と実践』法蔵館、2022年。
  5. 天野正子『「つきあい」の戦後史―サークル・ネットワークの拓く地平』吉川弘文館、2005年、3頁。天野における小集団やサークルとは「メンバーの自発性に支えられた小集団として、メンバーが互いの表情を見分けることのできる対面型の相互行為の場(「つきあい」)であり、拘束のゆるい非定型的な集まり」を指す。この定義は本稿が扱う信徳舎を説明する上で有用であると考えているが、天野ら社会学者が蓄積してきたサークル概念を戦前の宗教周辺の小集団に適用していくことについては、別途検討が必要であると考えている。
  6. 愛媛慈恵会と本城については、愛媛慈恵会編『愛媛慈恵会創立八〇周年記念誌』愛媛慈恵会、1981年、松友武昭「吉田政常・本城徹心 子らに手を差し伸べ、育てよう 愛媛慈恵会の若い創始者」『文化愛媛』53号、2004年を参照。
  7. 本城徹心『生命発見の道』松山信徳舎、1928年、22-24頁。
  8. 彼らの寺で本城が講演した記録が残されている(本城徹心『私の観る無量寿経』松山信徳舎、1930年)。特に藤原鉄乗は、高橋も面会した様子があり(「たより」『生』1巻9号、1929年10月)、本城死後にも「正受会」を訪れている(照峰馨山『無中に道あり』丁子屋書店、1941年、252頁)。
  9. 『生』2巻11号、1930年11月。
  10. 『正受』1932年2月号。
  11. 本城は、愛媛県史編さん委員会編『愛媛県史 人物』愛媛県、1989年に掲載されているが、「大正デモクラシーの風潮の下、本城は禅や教派神道の教義を取り入れた仏教活動を行ったため、信徒と遊離し、大正8年安楽寺住職を辞した。」とあり、筆者の調査から示した経歴とは、還俗年、生没年、また時系列(還俗後に高橋や照峰と出会っており、それ以前に禅や教派神道との接触はみられない)も異なる。
  12. 現在確認できている本城の著作は次の通り(所蔵の記載がないものは国会図書館蔵)。『信と生活』中外出版、1924年、『生命発見の道(叢書第1号)』松山信徳舎、1928年、『私の観る浄土真宗(叢書第2号)』松山信徳舎、1929年、『私の観る往生浄土論(叢書第3号)』松山信徳舎、1929年、『私の宗教体験(叢書第4号)』松山信徳舎、1929年(横浜市立中央図書館蔵)、『私の観る無量寿経(叢書第5号)』1930年、『私の観る正信念佛偈(叢書第6号)』広島信徳舎、1931年(大谷大学図書館蔵)。
  13. 高橋正雄「信と生活との具体的関係について」『一筋のもの』篠山書房、1929年(高橋正雄『高橋正雄著作集第3巻一筋のもの』高橋正雄著作集刊行会、1967年、80-81頁)。また、同じく『高橋正雄著作集第3巻一筋のもの』所収の高橋正雄『素』篠山書房、1927年も参照。
  14. 佐藤光俊「高橋正雄における信仰的自覚確立への過程について―信念模索期を中心として」『金光教学』23号、1983年、佐藤光俊「高橋正雄における信仰的自覚の確立と展開―信念の確立と立教神伝解釈の教団論への展開について」『金光教学』25号、1985年。
  15. 福嶋信吉「死んだと思うて欲を放して神を助けてくれ―金光教における教団論の形成と宗教伝統の革新」島薗進編『何のための〈宗教〉か?―現代宗教の抑圧と自由』青弓社、1994 年。
  16. 照峰馨山『転身の一路』篠山書房、1932年、162-163頁。本城は富士川游の雑誌『法爾』の県下誌友名簿に掲載された人に『信徳』を送付していたようである(ただし、照峰は『法爾』は見本を見ただけで購読していなかった)。
  17. 照峰馨山『転身の一路』篠山書房、1932年、50-53頁。
  18. 杉瀬祐「「転身・回心の岐路」―宮崎安右衛門覚え書(その二) 」『論集』31(2)、1984年12月。
  19. 上浦町誌編さん委員会編『愛媛県上浦町誌』上浦町役場、1974年。
  20. 本城徹心「序」高橋正雄『声』新生舎出版部、1926年(高橋正雄『高橋正雄著作集第1巻 道を求めて』高橋正雄著作集刊行会、1966年、223頁)。この文章以外でも本城は同様のことを述べている。
  21. 高橋は芸備日日新聞を読んだと残しているが、筆者の調査で紙面は確認できていない。一方、愛媛の『海南新聞』1921年10月22日夕刊に「本城徹心師 僧籍返還の理由を語る」という記事が出ていることが確認できている。この記事からは、本城は愛媛慈恵会に専念するために還俗したように読み取れる。
  22. 高橋正雄「引導を渡し合った仲」『正受』1932年2月号。この他に高橋が本城について詳しく記しているのは、高橋正雄「故本城徹心師を偲びて―昭和十年一月十一日広島信徳舎にて」『生』7巻2号、1935年2月。
  23. 照峰馨山『転身の一路』篠山書房、1932年、167頁。
  24. 服部宜啓「無煩悩」『正受』1932年2月号。服部は同じ宗派の師兄である照峰が本城に入れ込むことに反発を覚えていたが、本城と対面を果たし「信心をのみ専一に物語るその熱烈なのに驚いた」。その後、信徳舎や高橋の生の会の常連となった。
  25. 高橋正雄「引導を渡し合った仲」『正受』1932年2月号、高橋正雄『声』新生舎出版部、1926年(高橋正雄『高橋正雄著作集第1巻 道を求めて』高橋正雄著作集刊行会、1966年、256-264頁)。
  26. 「追憶浩々荘主」及び「無賓主言」『正受』1938年7月号。
  27. 高橋も『信徳』を読んだ感想として、清沢満之の言葉を引きながら、「超道徳、超習俗の信味を表現されてあるのが、全くは腑に落ち兼ねたのを覚えて居ります。」と残している(高橋正雄「引導を渡し合った仲」『正受』1932年2月号)。
  28. 照峰馨山『転身の一路』篠山書房、180-181頁。
  29. 本城徹心「私の宗教」『信と生活』中外出版、1924年、7頁。
  30. 本城徹心「私の宗教」『信と生活』中外出版、1924年、9頁。

このエントリーをはてなブックマークに追加