泡沫の小集団・信徳舎の活動とその特質
四. 信徳舎の活動
次に信徳舎の活動状況について明らかにしていきたい。現在、資料上確認できている信徳舎は、西光寺内信徳舎、松山信徳舎、広島信徳舎、西條信徳舎、福井信徳舎の五つである。一つ目の西光寺内信徳舎は既述の通り照峰の自坊に設けられた『信徳』の印刷所を備えるものであり、活動を明らかにし得る資料も相対的に多いことから、後ほど詳述する。二つ目の松山信徳舎は愛媛県道後湯之町にあり、本城の叢書の発行所として記載されており、安楽寺を辞した後の本城の拠点だった可能性が高いが詳細はわからない。三つ目の広島信徳舎は広島市古田という市街地の西に位置し、1931(昭和6)年に落成したもので4040高橋正雄「たより」『生』3巻4号、1931年4月。三月に広島信徳舎の落成と本城の叢書五号刊行を記念した座談会と講演会が同舎および広島市公会堂で催されたとある。、既述の通り本城が亡くなり葬儀も行われた場所であり、本城の最晩年の拠点だった可能性がある。四つ目の西條信徳舎は、本城の講演場所として記載があるものの詳細はわからないが、西條は本城の出身地であることから、これも本城に関連したものである可能性が高い。五つ目の福井信徳舎は、福井県坂井郡新保村に1931(昭和6)年に落成したもので、本城の個人雑誌『慧燈』の印刷所でもあった。
以上のように、信徳舎は主として本城の活動拠点に名付けられたことがわかるが、『信徳』の刊行を始めた一年後に本城は還俗していることもあり、真宗の寺院を拠点としていない。また、「信徳舎気分が判りましょう」や「私の家も信徳舎にしてもらいたい」といった用例もみられることから4141本城徹心『私の観る無量寿経』松山信徳舎、1930年、87-88頁。、信徳舎は活動や施設の実際を指すだけでなく、理念的な意味を含んでいたことにも注意しておきたい。ともあれ、僧侶を辞し、愛媛慈恵会の活動からも次第に遠のき、信徳舎の活動に専念していった本城は、どのように講演や出版を展開していたのだろうか。講演については、高橋が幾十百回きいたと述べていることからも4242高橋正雄「引導を渡し合った仲」『正受』1932年2月号。、相当の数をこなしていたことがうかがえる。それらの講演をもとに本城の著作の多くは構成されているが、中外出版から刊行された処女作『信と生活』を除き、叢書と名づけられた六冊の著作は、『信徳』誌上で賛助を募り刊行されていた。1928(昭和3)年に、一口五円、一五〇口の賛助を募ったところ、二か月で五〇余名から一二〇口を集めている4343「叢書刊行に就いて」本城徹心『生命発見の道』中央堂印刷所、1928年。。1930(昭和5)年時点での賛助者たちは、広島県(四五名)、福井県(一一名)、愛媛県(九名)、大阪市(八名)、その他(一四名)で、さらに四名からの特別の出資により、予定よりも早く第五号までを出版し、第五号は福井県の窪田なる人物からの出版費を得て刊行している4444「はしがき」本城徹心『私の見る無量寿経』松山信徳舎、1930年、「はしがき」本城徹心『私の観る正信念佛偈』広島信徳舎、1931年。。このように本城の活動は主として『信徳』の読者により支えられていたことがわかる。
本城の活動で特徴的な一つは、愛媛や出身地・広島を中心としながらも、北陸という遠隔地にその活動が展開していた点であろう。既述の通り、本城は暁烏、高光、藤原ら真宗大谷派の中でも浩々洞に関係した人物たちとの接点が確認できるが、1927(昭和2)年8月の暁烏敏の講習会で本城は「西本さん」と知り合ったことが契機となり、10月に福井の中央会館での公開講演会に招かれている4545本城徹心『私の観る正信念佛偈』広島信徳舎、1931年、1頁。。この西本なる人物は、福井県で細民の医療機関とされる実費診療庶民療院を行っていた西本法龍とみられ4646西本法龍については、福井県学務部社会課編『福井県社会事業概要』福井県学務部社会課、1927年、20頁。、在地の真宗関係者に知遇を得たことが北陸での活動につながったと考えられ、その後、越前慶法寺等での講演も確認できる4747本城徹心『私の観る無量寿経』松山信徳舎、1930年。講演したのは1928(昭和3)年10月である。。こうした状況を背景に、福井の本願寺派や高田派の人達が発起して4848高橋正雄「たより」『生』2巻11号、1930年11月。、1931(昭和6)年、福井信徳舎による本城の個人雑誌『慧燈』の創刊に至ったと考えられる。福井信徳舎は土地五十坪、建物十六坪程を買い求め、印刷機械を購入して『慧燈』の発行にあたった4949本城徹心『私の観る正信念佛偈』広島信徳舎、1931年、巻末広告。。『信徳』が「宗派を越えて、[本城]先生の信念を表現せられるために発行」されたのに対して、『慧燈』は「先生が真宗の方々のために、真宗の教義に基いて先生の信念を表現せられたんとする」雑誌であり、目的を異にしていた。このように、福井には本城の活動を展開させることに熱心な真宗関係者が居たが、本城は昭和6年中頃から体調を崩したため、福井信徳舎は当初想定していた活動はあまりできなかったのではないかと推測される。それでも、本城死後に高橋と照峰が福井信徳舎の関係者と交流したり、藤原鉄乗が西光寺内信徳舎を訪れたりする等5050例えば、高橋正雄「たより」『生』5巻9号、1933年9月。この時、高橋と照峰は本城等の追悼のために福井に招かれている。翌年にも、福井信徳舎の活動が『生』には掲載されており、本城死後も活動を続けていたとみられる。藤原鉄乗については注8を参照。、北陸での活動の足跡が認められる。
以上のように、本城から見た信徳舎とは、「私の真実の宗教」を宗派にこだわりなく発信する活動と並行して、次第に真宗の地方的展開にも取り込まれていく側面を有していた(ただし、『信徳』や『慧燈』が確認できていないため、今後の資料発見により本城の活動実態は更新される可能性がある)。三節で確認したように、本城の志向は帰属する宗教の違いを乗り越えていく性質を備えていたが、真宗と接続することもまた可能であったのである。このように既成の宗派から横溢していきながらも地続きであるという信徳舎の性質は、自坊で活動を展開した照峰の活動において、より顕著に現れる。