泡沫の小集団・信徳舎の活動とその特質
集会の参加者名簿から確認できる属性のもう一つは、大三島の教員たちである。正確な時期は不明だが、西光寺では島内の中学校の教職員に対して毎週水曜日に『禅海一瀾』(今北洪川の著作)の講義を開いており、教職員には信徳舎の活動も案内されていた。教員の一人は、照峰の講義は「宗教臭のない宗教観を織りなしての講義」で面白かったこと、そして「真宗や金光教やその他宗旨宗派にとらわれず、いろいろの人が、画家、教授、詩人などまでがオッサン[照峰馨山]をたずねてくる。そのたびに私らにも案内があって、その人たちの語り合うのを聞くのが実に楽しかった。」と感想を残している5757森光繁『忘れ得ぬ人々』1970年(私家版)。高橋も「正受のあつまり」に学校の先生が集まっていたことを残している(『生』5巻6号、1933年6月)。。このように西光寺内信徳舎は地域に開かれ、和尚としての照峰と信徳舎主催としての照峰は矛盾なく同居していたといえる。また、照峰は佛通寺派とも良好な関係を築いていたとみられる。
このような宗教者に限定されない人的交流という特徴は、『正受』誌上にも表れている。筆者が閲覧できている1932(昭和7)年2月から1938(昭和13)年12月の計五三号5858西光寺蔵四七号分(経緯が不明の『しんとく』1930年2月号、及び戦後再刊の一号を除く)と金光図書館蔵一五号分の重複を差し引いた数。の執筆者と記事数を数えると、照峰が一四四記事と最も多く、続いて伊藤幾平(銀行員)、宮崎安右衛門(キリスト者、二節参照)、高橋正雄、北川淳一郎(松山高校教授)、服部宜啓(臨済宗大慈寺)と続く。この他、先にあげた中学校教員の森光繁と森壽譽、更生社の青木繁、阿野赤鳥(詩人)、本莊可宗(評論家)らの名前もみえる。記事の内容は、照峰は「禅海一瀾私議」「白隠老鶴」「生活を語る澤庵和尚」等の禅に関する連載が中心だが、時にキリスト教についても論じている。その他の人物たちは、宗教関係の記事は仏教やキリスト教への言及が多いが、全体的には各人の随筆のような文章が多くバラエティに富む一方で、『正受』から一貫した思想性を読み取ることは難しい。このような『正受』の記事構成、あるいは先に挙げた島の教員たちとの関係等からは、照峰の信徳舎の活動には教養・修養的側面を濃厚に読み取ることができる。
照峰は1943(昭和18)年1月に亡くなる。その際、高橋は自身の個人雑誌『生』に照峰との関係について次のように残している。
本城さんが亡くなった時にも云った事だが、十三四年間の交りに、何一つ頼まれた事もなく頼んだ事もなく、これと云う用事をお互の間に持たなかった。従って、気まづい思いをした事が一つもない。照峰との間も二十年からになるわけだが、大体に於て同様で、いくら会わないで居ても、なんともなく、いくら度々会うても、別にこれという事なく、やはりなんともない5959高橋正雄「照峰馨山」『生』15巻2号、1943年2月。。
高橋にとって本城と照峰は互いに依頼心(利用しようとする気持ち)を持たない、それゆえに気兼ねない間柄であった。そして、「照峰に亡くなられて、別にこれと云う感じが起こらない」としながら、「何故だか、涙らしいものが催しそうになる」と、日常に溶け込んだ友の突然の死をどのように受け止めるか苦悩をにじませた。この文章で高橋が、「事が切迫して来ると、何も彼も区別と云うものがあまりなくなるものなのであろうか。」とも述べるように、この時期は戦時下の厳しい生活下にあった。紙の配給量は少なくなり、集会も許される状況でなくなる中での照峰の死は、信徳舎の活動を停止させるのに十分な出来事であった。戦後になり、宮崎安右衛門は大三島を訪れて人々と交流を続け、西光寺では『正受』を一号復刊させる等、関係者の間に信徳舎の存在はかすかに残っていた。しかし、その一条の煙もいつの間にかどこかに行ってしまった6060鶴見俊輔は「サークルは煙のようなもので、そこにそれがあったかどうかは、一条の煙によってのみ知られる。その煙も、しばらくの後にどこかに行ってしまう。公けの記録ののこる団体の歴史に比べれば、はかないものだが、しかし、生命は、はかないものの側にあるともいえる。」と述べている(「なぜサークルを研究するか」思想の科学研究会『共同研究『集団』』平凡社、1976年、7頁)。。