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泡沫の小集団・信徳舎の活動とその特質

藤井麻央氏
四-二. 西光寺内信徳舎と照峰馨山の活動

1932(昭和7)年に本城が亡くなった後も残ったのが、『信徳』の印刷所である西光寺内信徳舎であった。照峰が1925(大正14)年に自坊・西光寺に印刷所を設けたのは、寺で修業を望むものが絶えず、その人たちを徒食させず、体当たりで教え導くためだったと言われている5151高亀良樹「こゝまで歩み来つて」『更生』1935年4月号、森光繁『忘れ得ぬ人々』1970年(私家版)。。確かに照峰の著作には、信徳舎の仕事を担う人々や、照峰の著作を読んで県外から修業に来る在家の人々が描かれており5252例えば、石川県能美郡から来た大倉重兵衛(照峰馨山『転身の一路』篠山書房、1932年、16-21頁)、古本屋で照峰の本を見つけて「宗教の本質はここだ」と照峰を頼って来た大阪の「青年H君」(照峰馨山『無中に道あり』丁字屋書店、1941年、187-203頁)等。、西光寺内信徳舎は修業・修行の場として機能し、彼らの奉仕によって印刷業務が担われていたことがうかがわれる。1920(大正9)年に本城により創刊された『信徳』は、本城が死去する直前に『正受』と題名を変え、本城死後も照峰が刊行を続けた(終刊時期は不明)。『正受』の発行は、「部数は五百を超え全国に発送された。印刷は和尚[照峰馨山]自ら修行者等と機械を踏み活字を拾って苦心も相当なものであった」と伝えられている5353上浦町誌編さん委員会編『愛媛県上浦町誌』上浦町役場、1974年、448頁。

西光寺内信徳舎の印刷物として、更生社による『更生』という雑誌も確認できている。この雑誌は、結核治療にあたる糸崎療養院(日本赤十字社広島支部)を開業していた高亀良樹によるもので、1925(大正14)年3月に創刊、10号から1931(昭和6)年5月まで信徳舎が印刷を担った(その後も1940(昭和15)年まで刊行が確認できている)5454『更生』は三原市立図書館蔵を閲覧しているが、1926(大正15)年から1930(昭和5)年の間が欠号しており、この間に恒常的に刊行できていたかは確認できていない。。高亀は『更生』の部数が増えて謄写印刷が難しくなっていた矢先、知人から信徳舎の存在を知らされて、「『更生』誌発刊の目的も『信徳』誌と共通のものがある」ので引き受けてもらえるだろうと言われ、照峰に依頼して快諾を得た5555高亀良樹「こゝまで歩み来つて」『更生』1935年4月号。。『更生』の目的は時期によりやや変調があるものの、医学の通俗化とともに、健康の根本には「心の安住の場所」を樹立するとの認識に立ち、結核患者・療養者の伴侶たることを目指すものであった5656「本誌の使命」『更生』1937年2月号。。そのため、医学系の記事に並んで照峰や高橋の寄稿も多数あり、1931(昭和6)年から高亀の発案により糸崎療養院で実施された「安静無言更生週間」という療養生活改善運動には、高橋と照峰が継続的に協力した。また、『更生』の主筆であった青木茂は、後に尾道短期大学教授を務め、『尾道市史』の編纂を行った人物であるが、高橋を通じて次第に金光教との関係を深めていった。このように、単に『更生』の印刷を信徳舎が請け負っただけではなく、照峰や高橋と更生社の人々は交流しながら相互に活動を共にした。

本城の信徳舎の活動が北陸という遠隔地の真宗関係者に展開していったのに対して、照峰を中心とする西光寺内信徳舎にみられる特徴は、瀬戸内という地域における、宗教者に限定されない人的交流の展開である。その一端を示すものとして、まずは集会の参加者を見ておきたい。信徳舎では「信徳講習会」(図一)や「正受のあつまり」「正受会」といった名称で誌友会的な集会を例年行っていた。『正受』1932(昭和7)年6月号には「正受のあつまり道友録」として住所と氏名が書かれた参加者名簿が掲載されている。この集会は前号に開催告知が出ており、それによれば同年1月に死去した本城の追悼会を兼ね、五月九日から三日間、高橋正雄、服部宜啓(臨済宗大慈寺)、高亀良樹(糸崎療養院・更生社)、柳原舜祐(西南学院・まことの寮)を講師として実施したものである。参加者は、広島県三〇名、愛媛県二八名、岡山県六名、福岡県一名、不明二名の計六七名であり、市郡のレベルで見ると各県において瀬戸内海沿岸に近い地域に集中している。そして、尾道求道会(三節参照)、更生社、高橋の生の会に関わる人々の名前が確認でき、これらの小集団に人々は複合的に関与していたことがわかる。

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