泡沫の小集団・信徳舎の活動とその特質
まず、照峰に強烈な印象を与えた本城の「私の宗教」とはいかなるものであるか。それは、本城が新しい宗教を唱えているわけではなく、「私の救われた宗教」あるいは「私の信念」のことである。
私を救うて呉れた宗教は、私に取りては真実の宗教でありまして、略して謂えば真宗と申します。併し私の宗教が私の為に真実の宗教であると同時に、他のお方が救われた其の宗教も其人に取りては、真実の宗教であることを、衷心から認めて居りますから、若し信仰を異にする人と同棲しても、或は仕事を共にしましても、不快の感じは更になく、互いに信仰に生きて行く幸福を物語って喜ばれます2929本城徹心「私の宗教」『信と生活』中外出版、1924年、7頁。。
本城が救われた「真実の宗教」は真宗であるが、他者各々の「真実の宗教」があることを認めている。その考えが成立するのは、次のように、本城にとっては何れの宗教も同じであるからであろう。
私が何れの宗教も同じものであると申すのは、其説き方が同じ様なと云うのではのうて、其御本尊たるお方が、同じ者であると云うのです。夫を如何なるお方として信仰して居るかと云うに就て、宗教宗派の区別が出来るのであります。神様は同一でも信仰する人々の心が一様でないから、之を言葉に顕わし文字に示す時は、全く異りたる者の様になるのです。夫ゆえ私共が教権に盲従せずして、各自の宗教的欲求を押し進めて行けば、宗教の真髄に接触して、救わるることが明かになりますから、仏教とか真宗とか云う他人の付けた名に関係なく、私の真実の宗教が成り立つのでありまして、夫と同時に宗祖達の謂われた言葉に、全分の共鳴が出来るのです3030本城徹心「私の宗教」『信と生活』中外出版、1924年、9頁。。
本城が「本尊が同じ者」という背景には、当時隆盛していた生命主義的な「世界の原理としての生命3131鈴木貞美『「生命」で読む日本近代』NHK出版、1996年、33-34頁。」という観念があるとみられる。本城の『生命発見の道』という著作では、「阿弥陀様とは天地宇宙を一貫せる大生命のお名」であり、仏を見るとは生命を発見すること、宗教を信ずるということははっきりと自分が生きることであると説いている3232本城徹心『生命発見の道』松山信徳舎、1928年、27-28頁。。本城の語りからは、生命主義の受容とともに、前川理子が指摘する体験重視や脱教団性といった生命主義の特徴3333前川理子「近代の生命主義」池上良正・小田淑子・島薗進・末木文美士・関一敏・鶴岡賀雄編『岩波講座 宗教7 生命』岩波書店、2004年。を読み取ることができる。
一方で、生命主義の向かう一つの方向とされる超宗教・新宗教の樹立に、超宗派的な信徳舎の活動が向かうことはなかった。本城の関心は、上の引用からも示唆されるように、信仰を異にする人と互いがその信仰に生きることを語る喜びにあったと考えられる。それは法衣を脱いで、「来れ、悩める友よ、共に泣き、共に笑わん」の旗を掲げて豆腐売りを始めた本城の行動からもうかがうことができる。信徳舎の活動目的は会則等が見当たらないため判然としないが、本城が希求したのは、「私の真実の宗教」を求める友と、彼らと共に苦楽を分かち合うことができる付き合いの場であったと、本城の言動から推測することができる。このような志向を前にして、集う人々の帰属する宗教の種類、あるいは特定の宗教に帰属しているか否かはあまり意味を持たないといえる。
本城の言動で考慮したい今一つは「生活気分」である。本城は次の言葉を残している。
私と高橋さんの信念、言葉をかえますと、生活気分は、殆ど同じように思われます。金光教祖様のお言葉に「我れは神徳の中に生かされてある」と申しておられるそうですが、この一言で、宗教の妙味は盡きておると私は思います。人間が自分々々の努力で、生きて行かねばならぬと思い込んでおる所から総ての苦しみも、悩みも起るのであります3434本城徹心「私の宗教」『信と生活』中外出版、1924年、227-228頁。。
ここでは親鸞ではなく金光大神の言葉を引いて、いわば「他力無我」の妙味を述べており、上述の本城の脱教団性を看取できる部分も興味深いが、注目したいのは前段である。本城は「信念」と「生活気分」を置換可能な言葉として捉え、かつ、それが高橋とほとんど同じであると思っていた。そして、高橋もまた、真宗と金光教で異なる所が多いのに、本城とは少しも別な気がしない、それはお互いに頂いている「信心」が一つのものであるからだと述べている3535高橋正雄「たより」『生』1巻11号、1929年12月。。確かに、本城と高橋は1918(大正7)年前後の近い時期に、生かされて生きることを感得することで生活を一変させる体験をしている。これは救済や回心の体験と言うことができるだろうが、二節の経歴に掲げたその体験の語りを具に読むと、両者は「気分」「心持ち」の変化としてそれを語っていることが確認できる。「気分」や「心持ち」は関連語・類義語とされ、「ある物事に接して抱く心の動き」という共通の意味があり3636遠藤織枝他編『使い方の分かる 類語例解辞典(新装版)』小学館、2003年、松井栄一「「心持」と「気持」」『武蔵大学人文学会雑誌』13(4)、1982年3月。松井によれば「心持」「気持」「心」「気」「思い」「心地」「気分」は関連語・類義語である。、本城は「気分」、高橋は「心持ち」の言い回しが多いものの、両者とも「気分」と「心持ち」を使い分けていた形跡はない。そして、本城は「私の思うことも、言うことも、為ることも、総てこの気分から出る。」と述べ、高橋は「気分」から「思想」と「行(動)」が生れ、「気分を生かすことが、何より大切」であると述べている3737高橋正雄『道を求めて』篠山書房、1926年(高橋正雄『高橋正雄著作集第1巻道を求めて』高橋正雄著作集刊行会、1966年、59頁)。。つまり本城と高橋は、「気分」「心持ち」を思考、言葉、行動を生じさせる元にあるものと把握しており、「気分」「心持ち」を良い方向にもっていくには、「我」を離れた生活態度を維持する必要があると考えていた。このように、表に現れる言動よりも、それを生み出す「気分」や「心持ち」の領域を重視しながら生き方を追求する志向もまた、宗教ごとの教義や儀礼の違いによる隔たりを低減する。それは高橋が、尾道求道会には、真宗、金光教、禅宗、基督教、天理教の人も居るが、「宗派の異同は問題になりませず、各自自分の心持が救われて行く事のみを大切な仕事とし、その間何等の隔てもない」と述べていることからもうかがえる3838「求信会座談 昭和二年十二月十四日 大阪三輪佐平邸ニテ」『生』3巻1号、1931年1月。。
以上、本城の志向を探っていくと、本城の救いは、二節で確認した通り、成育歴に加え、清沢満之の影響を受けつつ受容した真宗の教えによりもたらされたものであることは、体験的に揺らぎのないことであるが、それが唯一絶対であるとは考えていなかったことがうかがえる。宗教の違いは説き方の違いにあり、根源は一であって、その真髄に触れるべく各自の宗教的欲求を押し進めて「私の真実の宗教」を追求することが重視された。これが真宗の宗派としての正統的な教義とどのように相違していたか考える必要があるが、少なくとも安楽寺という地域の寺院活動において、本城の志向は満たされるものではなかった。さらに言えば、本城が体験的に感得した信念は、主観的な確信によってしか真実性を確認する手立てがなかった3939この分析は、Danièle Hervieu-Léger, Le pèlerin et le converti. Paris:Flammarion, 1999, pp.177-190.を参照した。エルヴュ=レジェは、個人化する現代における信念の検証について論じており、その議論を近代に適用するには大正期から昭和初期における宗教と個人の関係を詳しく検討する必要があるものの、既成の教団の外に個人の信念を発信した信徳舎を理解する補助線になると考えている。。それゆえに、自らが救われた体験や宗教的欲求を相互的かつ共同的に確認し得る場として信徳舎が要請されたのではないか。その場は、金光教の一部からは異端視されていた高橋にとっても、当時の宗教界に悲憤慷慨の気持ちを抱きながら「私の宗教」を希求した照峰にとっても重要な意味を持ったと考えられる。このように考えていくと、信徳舎は「私の真実の宗教」の語り合うことで、個々の宗教体験や宗教的欲求の確からしさを確認していく機能を有していたことが浮かび上がる。