泡沫の小集団・信徳舎の活動とその特質
三. 本城、高橋、照峰の出会いと連帯の基盤
前節で本城、高橋、照峰の経歴を明らかにした。高橋と照峰は三歳違いで、宗教の家に生まれて、「煩悶青年」の言説が流行する中、東京の大学で哲学を学んだという共通点がある。しかし、その二人を引き合わせた本城は一五歳程も離れていて境遇も異なり、各々の拠点は広島、岡山、愛媛と瀬戸内地方であるが決して近い距離ではなく、共通の知人がいたわけでもない。このような三人がどのように出会ったのか、まずは確認していきたい。
まず、本城と高橋の出会いの発端は、高橋の「いのり」という文章である。これは、「新たな生活」をおくる高橋が、何ものにも頼らない生き方をさせてくださいと、「いきがみこんこうだいじんさま」(「生神金光大神様」、金光教の教祖)に対してひたすらに祈る全文がひらがなで記された特徴的な文章である。これが1920(大正9)年3月の一燈園の機関誌『光』第2号の巻頭に掲載された(この二か月前に金光教の機関紙『金光教徒』第252号に掲載されたものの転載)。『光』を購読していた本城は「いのり」を見て衝撃を受ける。本城はその時の感想を次のように残している。
真宗は、一向宗とさえいうぐらいで、神様においのりするなどいうことを、前は、何やら恐いことのように感じた私も、その「いのり」を読んだ時は、失礼ないいようではあるが、金光教にも、こんな気持のお方もあるのかと、抱きつきたいようにおもいました2020本城徹心「序」高橋正雄『声』新生舎出版部、1926年(高橋正雄『高橋正雄著作集第1巻 道を求めて』高橋正雄著作集刊行会、1966年、223頁)。この文章以外でも本城は同様のことを述べている。。

そして本城は、松山の金光教教会で開催された高橋の講演会に行った。「いのり」はペンネームで書かれており、金光教と縁のない本城が「いのり」の著者・高橋を知るのは容易なことではなく、その行動からも本城の思い入れがうかがえる。この講演会で本城と高橋は面会できなかったが、本城は創刊間もない自身の雑誌『信徳』を置いていった。そして、翌年10月、還俗した本城のもとを高橋が訪れた。高橋は本城の残した『信徳』を手に取っていて、その本城が豆腐売りになることを新聞報道2121高橋は芸備日日新聞を読んだと残しているが、筆者の調査で紙面は確認できていない。一方、愛媛の『海南新聞』1921年10月22日夕刊に「本城徹心師 僧籍返還の理由を語る」という記事が出ていることが確認できている。この記事からは、本城は愛媛慈恵会に専念するために還俗したように読み取れる。で知り、松山を訪れたついでに本城の手伝いをしようと思ったのだった。二人は初対面にもかかわらず、傍で聴いている人が羨むほど、無我夢中で話した2222高橋正雄「引導を渡し合った仲」『正受』1932年2月号。この他に高橋が本城について詳しく記しているのは、高橋正雄「故本城徹心師を偲びて―昭和十年一月十一日広島信徳舎にて」『生』7巻2号、1935年2月。。そして、本城が亡くなる1932(昭和7)年まで、信徳舎の活動の他、中国・四国を中心に数々の講演や座談等を共にすることになる(図三)。