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第22回「涙骨賞」を募集
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明治維新150年に寄せて(2/2ページ)

京都ノートルダム女子大非常勤講師 大喜直彦氏

2018年1月1日

翌慶応2(1866)年、第二次長州征伐のため、閏5月22日の将軍家茂は3度目の上洛を遂げ、閏5月24日に大坂城に入りました。しかし体調が急変、7月20日、家茂は21歳の若さで病没したのです。慶喜は1カ月の間、家茂の死去を秘し、徳川宗家相続を画策、8月20日に死を発表するのでした。慶喜は将軍の代理として征伐に出陣し勝利して、有利な形で将軍職に就くつもりでしたが、現地での幕府軍敗北の報を受けると出陣を中止。そして12月、有利な立場に立てぬまま将軍に就任したのです。

苦慮する西本願寺

慶応3(1867)年10月14日、倒幕の密勅が下る寸前、慶喜は大政奉還を表明。薩摩・長州藩などは倒幕の機会を失い、朝廷では、慶喜の勢力を温存し新体制樹立を目指すグループと倒幕グループとが対立していました。しかし12月9日、倒幕派岩倉具視らが王政復古令を発布。これにより幕府廃止、摂政・関白廃止、参与設置などが決定され、新政権が誕生したのです。

京都でのトラブルを危惧した慶喜は、12日に大坂城へ移居。この微妙な立場に立った慶喜へ、見舞いを内々に贈れ、親しいとみられない手紙を書けとか、慶喜への対応を大坂津村別院へ命じた西本願寺の記録が最近発見され、話題となりました。

西本願寺にとって、対決姿勢を示す慶喜と親しい関係であると朝廷側から見られれば、今後、新政府との関係が不利になるかもしれない。また凋落したとはいえ、元将軍、これまでのように親しい関係を維持しておかなければ、依然勢力を保持する慶喜が巻き返した場合、旧幕府側よりどのような扱いを受けるかわからない。新史料からは、歴史の大きな流れの傍観者ではいられない、苦慮する西本願寺の姿が浮き彫りになりました。

西本願寺の選んだ道

慶応3年12月26日、新政府は西本願寺の勤王の志、門末の奮励を讃え、今後の戮力を仰せ付けました。27日、西本願寺は御用を承ること、即位大礼の用途調献を願いたい旨を返答。やがて慶応4(1868)年正月3日、戊辰戦争が起こると、西本願寺は総員僧俗約400名で御所の警備に当たりました。これを「猿ヶ辻警衛(守衛)」といいます。猿ヶ辻とは御所の東北角、鬼門に当たる築地塀(角が直角ではなく一部をへこませている)の場所をいいます。そして同年正月4日には、金3千両を献金します。そして以後も多額の献金をして新政府を支援しました。

ここに新たな夜明けを迎えつつある日本の中で、西本願寺のとるべき道は決まりました。以後、西本願寺は新政府とともに近代化の道を歩み、現在の基を築いていくのでした。

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