PR
購読試読
中外日報社ロゴ 中外日報社ロゴ
宗教と文化の専門新聞 創刊1897年
2025宗教文化講座
PR
2025宗教文化講座

明治維新150年に寄せて(1/2ページ)

京都ノートルダム女子大非常勤講師 大喜直彦氏

2018年1月1日
だいき・なおひこ氏=1960年、大阪府生まれ。龍谷大大学院文学研究科国史学専攻博士後期課程単位取得。文学博士。専門は日本社会史、日常生活史。著書に『中世びとの信仰社会史』(法藏館)、『神や仏に出会う時 中世びとの信仰と絆』(吉川弘文館)など。
動き出した時代~家茂初度上洛~

文久3(1863)年3月4日、14代将軍徳川家茂が、3代将軍家光以来、実に230年ぶりに上洛しました。目的は朝廷から攘夷実行の要請を求められたためでした。先がけて2月24日には、一橋慶喜が上洛して西本願寺を来訪します。広如宗主は殿中で慶喜に盃をすすめ、御堂・飛雲閣などを案内し、大奥へ招き入れ百花園で饗応したのです。慶喜とは「従来の御懇家(親しい間柄)」のため破格の扱いをしたのです。この時、慶喜から宗主・徳如新門・明如新々門へ土産として、唐物掛け軸・生鯛などが贈られています。

3月11日、家茂は孝明天皇による賀茂社への攘夷祈願行幸に供奉、4月3日には宗主・徳如新門・明如新々門が二条城に家茂上洛見舞いに出かけています。

傍観者ではいられない

明けて元治元(1864)年正月15日、将軍家茂が前年に続き上洛。目的は雄藩諸侯による国政参画の参予会議への列席でしたが、真意は西南雄藩で動く京都政局への牽制と幕府への主導権奪取でした。上洛した家茂は挨拶として、28日に宗主と新門・新々門へそれぞれ真綿30把ほかを贈っています。

このような中、京都池田屋事件の報が長州藩へ届くと、同藩は自重していた京都出兵を出陣へと舵を切りました。結果、蛤御門の変、元治の大火となるなど、京都は大きく揺れ始めました。この将軍上洛で諸大名らの動きは活発となり、京都の政局がにわかに動乱の様子を呈し、西本願寺もその中へ巻き込まれざるを得なくなったのです。

『広如上人芳績考』によると、蛤御門の変で敗走する長州兵数十名が西本願寺に逃げ込み堂内での切腹を希望。しかし宗主は毛利家との旧好を重んじ、死を思いとどまらせ、剃髪し僧侶に変装させ逃走させたとあります。このため元治元年8月23日、会津藩は兵を率い西本願寺へ迫りました。これは慶喜の仲裁で難を逃れましたが、同藩は寺内を探索、嫌疑ある家臣・僧侶数名を捕縛投獄したといいます。

慶応初年の政治状況

慶応元(1865)年2月5日、発言権を強めていた朝廷から家茂は、再三の上洛と攘夷決行を要請されました。この時期、京都は孝明天皇の攘夷を維持して、一橋慶喜(禁裏守衛総督)と会津松平容保(京都守護職)・桑名松平定敬(京都所司代)、通称「一会桑」により江戸から独立権力状態にあったのです。将軍はその中心である慶喜を連れ戻して「一会桑」を解体し、京都を幕府の意に従わせようともくろんでいました。

増上寺三大蔵のユネスコ「世界の記憶」登録の意義と課題 柴田泰山氏6月18日

はじめに 本年4月17日の午後8時過ぎ、浄土宗と大本山増上寺がパリのユネスコ本部に対して共同申請していた「増上寺が所蔵する三種の仏教聖典叢書」が、ユネスコ「世界の記憶」に…

東洋的現象学としての井筒「東洋哲学」 澤井義次氏5月13日

言語哲学・イスラーム哲学・東洋哲学の研究において、世界的によく知られる井筒俊彦(1914~1993)は、晩年、伝統的な東洋思想テクストを、哲学的意味論の視点から読みなおす…

法華コモンズのめざすもの 西山茂氏5月7日

「法華コモンズ仏教学林」の学是は、日蓮仏教の「再歴史化」(具体的には現代的蘇生)である。当学林は、10年前に、法華宗諸派や日蓮宗諸派・日蓮系新宗教などの宗派横断的な学び舎…

世界平和への貢献 具体性持った目標を(6月13日付)

社説6月18日

祖師から現代へ 期待される宗教者の指導力(6月11日付)

社説6月13日

気候危機と食料危機 カネでは解決しない(6月6日付)

社説6月11日
このエントリーをはてなブックマークに追加