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釈尊の雨安居と雨安居地―釈尊教団形成史と釈尊の生涯③(2/2ページ)

東洋大教授 岩井昌悟氏

2020年4月2日 13時41分

波羅提木叉の新規制定・改訂の権限は釈尊にのみあった。「春の大会」と「夏の大会」をともなう雨安居は、釈尊教団の運営・維持にとって最重要イベントと言い得、世間の非難を受けてしぶしぶ採用されたようなものではなかったと考える所以である。

また雨安居そのものは3カ月であるが、状況証拠からその前・後に、釈尊がその年に雨安居を過ごす、あるいは過ごした地に留まらなければならない期間があったと想定され、釈尊が雨安居を過ごした地というのは、釈尊がその年の大半を過ごした地であって、釈尊が45回の雨安居をそれぞれ何処で過ごされたかは、ある意味、決定的な釈尊伝の情報となる。実はそのものずばりの伝承が残されており、私たちはそれを「雨安居地伝承」と呼ぶ。

すでに諸先学に紹介され、たびたび参照されてきたものであるが、原始仏教聖典には見られず、後世の註釈書類にのみ見いだされる。大きく2タイプの伝承があり、一つは「最初の雨期はイシパタナ(鹿野園)で、2回目の雨期はラージャガハ(王舎城)の竹林精舎で…」というように雨安居の年次を示すタイプであり、もう一つは「王舎城に5回、舎衛城に23回…」と回数のみを示すタイプである。

この雨安居地伝承は、特に年次を示すタイプは、これまで先学によってそれとは言及がなくとも、無批判に参照されてきたが、古くにすでにオルデンベルク(編注=ドイツのインド学者ヘルマン・オルデンベルク)が「これらの後世の成立になるリストが全く無価値であることは、聖典が年次について完全に沈黙を守っていることから明らかである」と述べており、私たちはこの伝承の資料的価値を確定する必要に迫られた。私たちは、方法論の詳細をここに示すことは紙幅が許さないが、原始仏教聖典の記事から釈尊の雨安居地を抽出し、そしてこの雨安居地伝承と比較した結果、おおよそつぎのような結論を得た。

①雨安居地伝承に挙がる地名について、釈尊がその地で雨安居を過ごしたという記事が、必ずしも聖典中に確認できるわけではない②成道後20年までに挙げられる地名の根拠の一つは、阿難より以前に釈尊の侍者を務めたとされる仏弟子が登場する経の舞台となる地名である。成道後21年ごろに釈尊によって阿難が恒常的な侍者に選ばれる以前に、数名の侍者があったという伝承が存し、それらの仏弟子が釈尊の侍者として登場する記事が、成道後20年までの間に位置づけられた③成道後21年以降、44年までの雨安居地がすべて舎衛城となっていることも、阿難が25年間釈尊の侍者を務めたという伝承と恐らく連動している。

私たちは雨安居地伝承の資料的価値を「なし」と判定し、その後は先に述べた、私たちが原始仏教聖典の記事から抽出した釈尊の雨安居地を採用して年表を構成したのである。

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