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最初期仏教とオウムを相対比較―地下鉄サリン事件から25年⑧(1/2ページ)

花園大教授 佐々木閑氏

2020年11月6日 16時32分
ささき・しずか氏=1956年、福井県生まれ。京都大工学部、文学部卒。同大学院文学研究科博士課程満期退学後、米国カリフォルニア大バークレー校留学を経て現職。文学博士。専門はインド仏教学、仏教哲学、仏教僧団史。日本印度学仏教学会賞,鈴木学術財団特別賞受賞。『出家とはなにか』『インド仏教変移論』『科学するブッダ 犀の角たち』『日々是修行』『ネットカルマ』など著書多数。

オウム真理教(以下「オウム」と略称)と仏教を比較するための方法を一つ、提示したいと思う。オウム真理教は、単独の宗教団体だということになっているが、教えの基本に仏教があり、組織形態も仏教サンガ、すなわち出家者がつくる修行のための組織をベースに運営されていたのであるから、仏教の一派として位置づけることは十分可能であろう。オウムが示した様々な主張も探してみれば、仏教諸派のいろいろな個所にその源流を見いだすことができる。ポアの思想や、世紀末ハルマゲドンの危機感なども、言葉は違っても従来の仏教教義の中に対応するアイデア、世界観が先行して存在していたことは周知のことであろう。

また、「師の言葉は、たとえそれが不当なものであっても、命をかけて守るべし」といった極端な師弟関係の規範も古来、仏教諸派の一部で言われている。従ってオウムを、全世界的なスケールでの仏教世界における一つの分派として位置づけることは可能である。そういった位置づけを設定したうえで、オウムと仏教の関係性を見ていく、という提案である。

オウムを仏教の一分派とみなすことで、一つの物指しの上に、他の仏教諸派と並べて置くことができるようになる。その物指しとは、今はどこにも存在しないが、古代インド文献や考古学的情報によって復元される、釈迦およびその直後の時代の仏教、言い換えれば最初期の仏教である。それを基準として設置し、そこにオウムや、そして2500年の歴史の中で生み出されてきた数多くの仏教運動を置き並べることで、本来の仏教とオウムの違いも明らかになるし、種々様々な仏教運動とオウムとの違いも明らかになる。ただその場合、明らかになるのは違いだけでなく、共通性もまた明らかになるという点が重要である。

このような形で分析すると、オウムをひたすらな悪玉にし、その他の既成仏教教団を善玉にするという、単純な構図は成り立たなくなる。仏教対オウムという対立構図は成り立たなくなり、オウムも含めたすべての仏教運動を、相対的な距離関係で表すことになるからである。そしてそれこそが、オウムという宗教団体のポジションを客観的に理解するための基本視点になるものと考えている。

このような方法を用いる場合、物指し1本ですべてを測定するということは不可能である。個々の仏教運動はそれぞれに異なる側面を持ち、異なる特異性を持っているのであるから、それらを一括して定量的に比較することなどできるはずがない。

ここでは試論として、一つ二つ、比較基準を選び出して、その比較作業をやってみる。オウムの行動を思い浮かべた場合、最も目に付くのは教祖麻原の絶対権威と、その権威に裏付けられた暴力性であろう。ここに焦点を絞って、物指しを設定してみよう。

釈迦の仏教

1.統率者の権威:律という、僧団内の法体系が、メンバーの行動規範として絶対的権威を持っている。完全法治主義をとるため、師弟関係よりも律の規則が優先される。つまり、師匠の命令であっても、それが律に違背する場合には、その命令を聞いてはならない、ということである。各地の僧団は、全体がネットワーク式に構成されているため、中心となる僧団(既成教団でいうところの「本山」)は存在せず、仏教界全体に指示を下す権威はどこにもない。僧団運営は、個々の僧団において、そのメンバー全員が集まって行う会議により、民主的に行われる。メンバーの席次は、出家受戒してからの年月で機械的に定められるため、席次と権威性は無関係となる。各メンバーにとっての唯一の権威は、自分が師事する和尚、阿闍梨と呼ばれる後見人であるが、その権威よりも上位に、律の規則が置かれることは上述のとおりである。

2.暴力:律では、暴力の絶対的禁止が定められているので、メンバーはどのような状況であっても、たとえその暴力が、相手のためを思ってのもの(愛の鞭)であっても禁止される。万一、メンバーが暴力を振るった場合には、ただちに律の規定により、相応の罰が与えられ、さらに暴力を繰り返す場合には、僧団会議によって謹慎処分が科せられる。上記1を勘案すれば、たとえ師匠のような上位の権威者が暴力の使用を命じたとしても、律の規定が優先されるので、その命令に従ってはならない。そればかりか、律の規定によれば、違法な命令を下す権威者に対しては、その違法性を指摘し、考えを改めるよう意見することが推奨されているのである。

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