開山1300年の勝縁に寄せて(1/2ページ)
大阪大谷大教授 横田隆志氏
真言宗豊山派総本山長谷寺(奈良県桜井市)は、2026年に開山1300年を迎える。長谷寺の御本尊である十一面観世音菩薩は、現世・来世の願いをかなえる霊験仏として篤く信仰され、現在に至っている。ではその悠久の歴史や長谷信仰の特徴とは、どのようなものだったのだろうか。
長谷寺の歴史は、727(神亀4)年に徳道上人が近江国高島から流れいでた霊木を用いて高さ二丈六尺の十一面観世音菩薩を造立し、初瀬の地に奉安したことに始まる(『三宝絵』下巻第20話等)。右の寺伝に関連し、長谷寺本堂の近くで「複弁六弁蓮華文軒丸瓦」が出土している。奈良県立橿原考古学研究所によれば、これは7世紀末から8世紀半ばにかけて奈良盆地南部周辺の寺院で使用された「岡寺式瓦」と類似し、観音堂の創建瓦であるとみてよいという(『奈良県文化財調査報告書84長谷寺』)。
初瀬の地にこの瓦を用いた仏殿が存在したことは間違いなく、しかも768(神護景雲2)年10月20日に称徳天皇が長谷寺に行幸していることから(『続日本紀』同日条)、長谷寺が8世紀の時点ですでに朝廷から重んじられていたことがうかがえる。
次いで847(承和14)年12月21日、長谷寺は「霊験之蘭若(霊験あらたかな寺院)」であることにより定額寺(東大寺のような官寺に準じる寺院として朝廷が制定した寺)に列せられた(『続日本後紀』同日条)。
このことは、朝廷からの崇敬に加え、長谷寺の御霊験が当時の社会で広く認められていたことを示す。810~824年頃成立の『日本霊異記』下巻第3縁に、南都・大安寺の弁宗が長谷寺の御本尊に祈って大修多羅供の銭30貫の返済が叶う話が見えているのも、その証しである。
これ以後になると、類例は枚挙に暇がない。987(永延元)年には円融院、1209(承元3)年には後鳥羽院、1305(嘉元3)年には亀山院が長谷寺に臨幸している。そしてこうした事例は、はるか古の時代のみに認められるわけではない。
例えば2010年には、平城京遷都一千三百年記念祝典に際し、上皇上皇后両陛下(当時は天皇皇后両陛下)が長谷寺に行幸啓されている。
御本尊の御霊験に関わる話も数多く、『源氏物語』玉鬘巻には唐土にまでその名声が伝えられていたとある。昔話で有名な「わらしべ長者」も、実は長谷寺の御本尊に祈って男が幸福を得た話である。『今昔物語集』巻16第28話の記載によれば、御本尊から夢の告げを受けた男は、手にした藁が大柑子・布・馬・田および米へ交換され、裕福になる。また平安貴族、藤原実資の日記『小右記』によれば、実資は、990(正暦元)年9月6日から3日間歩き続けて長谷寺に参拝した。祈願の趣旨は子を授かることにあり、参拝の甲斐あってか、後年、実資は女児の誕生に恵まれた。生まれた子は、正式には千古という名だったが、実は「かぐや姫」とも呼ばれており(『大鏡』実頼伝)、実資にとって鍾愛の娘だったことがうかがえる。
このように長谷寺は人々が篤く帰依する観音寺院であったが、長い歴史の中で困難に遭遇することもあった。特に影響が大きかったのは火災であり、944(天慶7)年から1536(天文5)年にかけて7度、大火により御本尊や伽藍が罹災している。しかしそのたびごとに天皇や貴族・武家、そして庶民などあらゆる人々が復興に協力を惜しまなかったことが多くの記録類に見えている。
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