《宗教とAI⑦》AI時代の宗教者 新たな役目(2/2ページ)
真言宗豊山派現代教化研究所研究員・円福寺住職 石井祐晃氏
AIは教学においても実践においてもインパクトがある。これは仏教界に限らず、宗教界全般にいえることだろう。他の教団や個人に対して同種の刺激がもたらされており、なんらかの反応がある。とはいえ、その反応は「AIをどう使うか」「AI時代の宗教家はどうなるのか」といった種々の問いを生み出しては混乱させるものであり、触媒による活性化というより、異物による炎症に近いように見受けられる。私は、この炎症には、AI活用で直面する三つの要因があると考えている。
まずは、AI活用の継続学習である。AIの扱いは、覚えて終わりではない。AIへの指示のコツは、新たなAIモデルの登場とともに変化していくからである。初期の生成AIでは、「ステップバイステップで考えて」と指示の最後に追記するだけで、AIが段階的に思考し、回答の精度があがった。しかし、AIが推論できるようになった現在、課題によっては、その手法はかえって悪影響になる。現在主流のテクニックも、1年後には足かせとなるかもしれない。よって、AI活用の情報は日々アップデートする必要がある。その上、機能は矢継ぎ早に盛り込まれるため、AI活用に足を踏み入れると、常にインプットしなければならない慢性的な刺激を受けることになる。
現場での活用の道筋が見えてくると、今度は「AIの使用を檀信徒に知られたらどうなるのか」という心配が出てくる。檀信徒から見れば人生に数回しかない葬儀なのに、僧侶がAIを使っていたら、「ともに苦しむどころかAIを使って楽をしている」と思われて信用を失うのではないか、という恐怖である。この懸念には、一定の裏付けがある。東京大学とPreferred Networks社の研究者らによれば、AI生成の文章だと知った被験者は、信頼性や思いやりなどの評価を落とすという。人を相手にすることが多い宗教家にとって、AI活用を前面に押し出すと、かえって悪影響なのである。遺族や社会からの拒絶反応の可能性を、常に考慮しなければならない。
そして、評価の心配と同じタイミングで、存在論的な不安が押し寄せる。戒名や葬儀で唱える諷誦文は、テキストであるがゆえに生成AIの守備範囲である。法話でさえも、文章の形では成立する。僧侶の職能の中核に、衝撃を与える。「戒名や法話がAIに置き換わるなら、僧侶として何に力を入れれば良いのか」という根源的な不安におそわれる。特定のスキルに自信を持っている僧侶ほど、アイデンティティーが蝕まれるのである。
いうまでもなく、地方は少子高齢化と過疎化が深刻であり、若者の宗教離れもある。そのため、寺院護持への焦りは大きい。そんな中、かつてない可能性を切り拓く強烈な手段としてAIが現れた。世間で喧伝されるAIの有能さに、楽観的な見通しを抱かずにはいられない。しかしながら、AIに手を出すと、継続学習という慢性的な刺激と、関係者からの拒絶反応、そしてアイデンティティーの侵食の三つに苦しめられ、炎症のような混乱が起こるのである。
AI活用を目論む教団や宗教家は、テクニックを学びながらも、実践しすぎてはいけないバランスを保ちつつ、AI時代の新たな役目を見つけなければならない。追随に疲れ、信頼を摩耗し、自己像が揺らぐ。翻弄されるのも当然であろう。
技術革新を経たAIは、業務の効率化のみならず、教義と結びつく興味深い示唆をも与えてくれる。しかし、現場に目を向けると、AIは宗教界の厳しい背景を気にすることなく、三重苦に耐えてバランスを取れるかどうか、突如として試練を押し付けてくる。
つまるところ、AIは、ピンチに現れるスーパーマンのような存在なのだ。私たちの力になってくれる。しかし、スーパーマンが敵を倒すとき、街は壊れ、人はけがをする。何の損失もなく、ただ救ってくれると願うことは、絵空事である。私は宗教界の今後を考えると、痛みを覚悟してAIを取り込むしかないと思う。確かに、消耗や批判は避けられないだろう。しかし、いつの時代も、宗教家とはそうでなかったか。





