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第22回「涙骨賞」を募集
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東奥念仏始祖金光上人没後の説話形成(1/2ページ)

浄土宗来迎寺副住職 遠藤聡明氏

2017年9月1日
えんどう・そうみょう氏=1959年生まれ。大正大大学院宗教学修士修了。青森県黒石市・来迎寺副住職。共編著『金光上人関係伝承資料集』。論文は『仏教論叢』に発表を20年継続中。

昨年800回忌を迎えた金光(1154~1217)は、浄土宗祖法然の門弟の一人で、東北に専修念仏を伝えた人とされるが、九州を拠点に活動した浄土宗第2祖聖光に比べ、知名度は低い。信頼に足る資料や点在する遺物が線や面につながりにくく、実像に迫り難いものを覚える。

だが、ここではいくつかの文献をたどることで、その足取りをたどり、時代が下るにつれて、金光に関する説話が次第に形成されていったことを見ていきたい。

1.鎌倉時代の文献

金光に言及する最古の文献は、法然の孫弟子良忠の『決答授手印疑問鈔』とその弟子性真の『授手印決答見聞』(ともに1257年)である。筑後石垣観音寺の別当であった金光が所領の係争で交渉に赴いた鎌倉で、法然の門人安楽房の説法を聞き、法然の門弟となったという発心の因縁が伝えられる。前者では、「法然上人お隠れ後の法門の疑義は誰に尋ねましょう」との問いに、「聖光房と金光房が望ましいが、彼らは遠国にいるので」と法然が語ったとしており、教義の理解に対する評価が知られる。ただし、これらは教義書の注釈書であり、金光については付随的な話題に過ぎず、しかも年代の記述は見られない。

金光の東北下向の年代に言及する最古の文献は、法然の伝記『法然上人行状画図』(1307年以降)の末尾になるが、法然入滅よりほぼ100年後の成立で、確度の低下があろう。嘉禄3(1227)年陸奥の国に下向とするが、同年は天台宗の僧徒の圧迫による有力な法然門下の諸国配流の年である。前段のように法然生前の奥州下向とみる方が、いくぶん信頼がおけそうではある。

このほか、上述性真の弟子良心の『授手印決答受決鈔』(1293年)には、奥州会津で殊勝の往生という、入滅の地を特定した記述もある。だが、金光在世の鎌倉時代の成立が確実な文献は確認の限り上記がすべてで、考察の出発点としては心許ない。

2.室町時代以降の文献

浄土宗第7祖聖冏の『決答疑問銘心鈔』(1392年)も注釈書で、その所伝は鎌倉時代の踏襲。他に伝灯の系譜が若干ある。融俊一仲『浄土惣系図』(1506年)などは弟子明達、その弟子勇道の存在と、金光が奥州津軽(青森県西半域)に遣わされたとの記事がある。ただしそれらは浄土宗の中でも西山派の人師による系譜で、鎮西派の文献にはそうした記述は見られない。

3.江戸時代前半期の文献

約270年に及ぶ江戸時代を単純に2分割するなら、享保末(1737)年で区切りうるであろう。この時期に増大する宗内資料の嚆矢として、伝灯の系譜の袋中『浄土血脈論』(1623年)に、奥州津軽往生という、従前と趣が異なる記述がある。禅林寺貞準の『浄土宗派承継譜』(1684年)も同説を挙げる。以降西山系の文献が影をひそめ、金光の遺蹟だという地方寺院の文献が登場するが、時にその整合性を見いだしづらい。

その中で津軽藤崎(青森県南津軽郡)の摂取院に住した心誉蓮池による記録は示唆に富む。蓮池は遺蹟たる同寺寺歴の整備に始まり、金光の顕彰を行ったほか、藩の公式記録『弘前藩庁日記』によると、他寺院の復興、さらには江戸に上り、祐天の助力を得て念仏弘通に生涯を捧げたことが分かる。

袋中の曾孫弟子にあたる義山と円智の『円光大師行状画図翼賛』(1703年)、鸞宿『浄土伝灯総系譜』(1727年)などが、奥州栗原(宮城県北西域)の往生院での金光の入滅を伝えている。

以上の所伝の疑義を正さんとした義山の実地踏査による成果が『御伝翼賛遺事』(1729年)である。加美の往生寺(宮城県北東域、この時期から曹洞宗)の縁起と、先に述べた蓮池の活動を検討した結果、金光入滅の地は津軽浪岡(青森市浪岡)であると結論付け、関連の諸事情をも記している。

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