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希代の念仏行者「徳本」に学ぶ(2/2ページ)

浄土宗一行院住職 八木千暁氏

2017年9月6日
将軍家から町人まで念仏教化

時の増上寺大僧正・教誉典海大和尚は、僧侶の懈怠、念仏の衰退を憂え、徳本を江戸に請待すべく紀州に使いを出す。大和尚は江戸に出向いた徳本に会い、「願わくは永くこの地に錫を留めて群生を利益し給えかし」とその労を励まし、徳川御三家御三卿はもとより、大名家、とりわけ大奥の女官などに結縁を促した。徳本が留錫した小石川傳通院での法座には多くの人々が群参した。戸松啓真編『徳本行者全集』に載る文化12(1815)年5月の様子には「傳通院では毎月の五日、十五日、二十五日に御説法あり、山内大仏殿へ群集参拝する。広い本堂なれども隙間なく詰めるゆへ、中々近き所へ居ること難し。表御門外に諸人夜明け前、夜中から詰めかけいる人おびただしく海の波が打ち寄せるように騒がしき也。明け六つから表御門開き諸人ども入る也。お座敷は諸屋敷方女中等多く候。尼僧等おびただしく参拝。さて大仏殿正面に高座を据え、皆々鉦打ち鳴らし念仏申しいたし候。行者御出でにて御随身の僧十人付添い、鸞洲和尚御付添い高座へ御直り、行者から諸人へ御十念あり。諸人一同同音に高声にてお念仏相勤め、終わりて御説法、御十念奥へ入られる。後は前座詣でた者と後座へ入り来る者と入替わる也。それ混雑たとえ難し。それから又昼座同じく相済み。又夕方一座共。日に三度ずつ同様の事也」とある。

請待を受け出向いた先々の寺院でも、群衆する人々に十念を授け、日課念仏を誓わせたのである。この時の徳本関東下向は、文化11(1814)年、徳本57歳の時のことであり、亡くなるまでの4年間、江戸を拠点に精力的に諸国を回り、念仏教化に大いにその力を発揮した。

江戸一行院にて念仏往生す

徳本に帰依する篤信者は数多いが、特に徳川11代将軍家斉公の実父、一橋治済卿が徳本に帰依したことは大きな力となった。この頃、増上寺を始め多くの人々の懇願により、諸国巡錫の徳本の江戸滞留の声が高まった。一橋治済卿の力添えもあり、江戸滞在の寺として小石川一行院が急ぎ再建されることとなった。

文化14(1817)年の夏に建築が始まり、その暮れに徳本が入寺されるも、翌文政元年10月6日忽然としてその61歳の生涯を閉じたのである。

南無阿弥陀仏 生死輪廻の
根をたたば 身をも命も
をしむべきかは
       (徳本辞世の句)

葬儀は10月9日に一行院で行われた。増上寺典海大和尚は親しく葬儀に臨んで、群参する人々をかき分け一行院に到着し、導師を勤めた。大和尚は下炬の御辞に大悲菩薩の法語を挙げて「即是阿弥陀仏」と誦した。参列者一同感涙にむせび、徳本の往生を嘆いたのである。

おわりに

徳本没後、200年の時を経た現在、少子高齢化、檀家制度の崩壊、葬儀など諸儀礼の簡略化が懸念される時代となった。しかし、世間は仏教を見限ってしまったわけではない。菩提寺や僧侶に対して疑問符を持っているのである。江戸後期、身をもって僧侶のありようを示し、教化にまい進された徳本の二百回忌を迎え、報恩感謝の想いだけでなく、徳本の生涯を範として、今こそ僧侶がどうあるべきかを模索しつつ時を過ごしていきたい。

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