信仰に基づく支援 宗教者の寄り添い姿勢(5月16日付)
「一個の人間同士、横並びで伴走」「立場の垣根を越えて助け合う」。「人に寄り添う姿勢とは」という勉強会で、「苦の現場」にある人たちへの宗教者による様々なケアの例が示され、そこに通底するいのちへのまなざし、利他の精神が改めて浮き彫りになった。
東京・山谷で野宿者に食料を配布する僧侶グループは、握り飯を手渡しながら、段ボール住まいの一人一人に名前を呼んで声をかけ、その人に合わせて故郷の話題や趣味の話をする。凍えるような路上のそこには、援助というより、人間同士の温かい関係性が息づく。
北九州を中心に生活困窮者支援を続けるNPOの牧師は「ホームレスという人はいない」と言う。「ホームレス」は一状態を示す言葉に過ぎず、その人の人格を表すものではない。にもかかわらず要介護の○○さん、シングルマザーの○○さんと、その人の一部分しか捉えない発想は問題だと。
例えば「住宅確保要配慮者」は国土交通省の法規、生活困窮や障がいや要介護は厚生労働省、刑余者は法務省、「低学歴」は文部科学省がそれぞれ「所管」する。牧師らが支えるAさんはこの全てに該当するが、牧師は「当たり前ですが、Aさんと付き合っているのであって、『住宅確保要配慮者』とではないのです」。
自死を選ぶまでに追い詰められた人の相談を受ける僧侶は、「思いとどまってほしい」との願いで話を傾聴しじっくりやりとりをするが、様々な事情で相手の死の決意がどうしても固い場合は、死の直前に相手が「お別れです」とかけてきた電話に「はい、ありがとうございました。お話できて良かったです」と答える。
ぎりぎりの時に自死を引き留めずあえて受け入れるのは、その人を「気持ちを最後まで誰にも受け止めてもらえなかった」と絶望と孤独のままに死なせないための心遣いだ。以前、強く諭した相手から「立派な大木と話しているようです」と言われたことがあるという。心掛けるのは「相手と同じ温度」になることだ。
支援では裏切られることもある。あるキリスト者は「でも逃げない、見放さない。傷つく覚悟があってこそつながれる。誰かが自分のために傷ついてくれる時、私たちは自分が生きていていいのだと確認できる」という。格差社会で「逃げ遅れた」弱者が互いに世話になれる社会を目指す。原点は「十字架にかけられたイエスこそ逃げ遅れた弱者の代表」という認識。そこからも、信仰に基づいた活動であることがはっきり分かる。