そのとき、弔いは? 想定死者29万8千人(5月14日付)
30年以内の発生確率が80%程度とされる南海トラフ巨大地震の死者が最大29万8千人、災害関連死も5万2千人に上るという新たな被害想定を国の有識者会議が3月末発表した。東日本大震災は死者(災害関連死を含め約2万2千人)が1桁少ないが、それでも一部地域でやむなく仮埋葬(土葬)・改葬が行われ、被災の様相を一層悲劇的なものにした。
「一人の死は悲劇だが、百万人の死はもはや統計」と俗にいう。人は身近な死には心を動かすが、不特定多数なら、その悲しみや絶望に想像力が働きにくいらしい。だが、非常時であれ個々の死の尊厳を守るのは最優先の要請であろう。冒頭の悪夢のような数字が、逆に「減災」への諦めや無関心を招かないためにも、そのことを肝に銘じておきたい。死が軽視される社会は命も軽く扱われる。
東日本大震災では火葬場も被災するなどで火葬が追い付かず、体育館などに長く置かれ、厚く弔われることもなく腐敗が進んだ遺体が少なくなかった。宮城県では2千体以上が仮埋葬されたが、改葬のため遺体を掘り返す作業は厳しく、立ち会った人々が体調を崩すこともあったようだ。火葬されても墓や寺院が消失し、遺骨を埋葬できないという事態も生じた。
「亡きがらを大事にし、放置しないという日本の社会文化の根強い要請」(故五百旗頭真・東日本大震災復興構想会議議長)があっても、その実現は困難を伴う。
だが、葬儀はできなくても超宗派の僧侶が斎場などで読経ボランティアを行い、死者を見送る活動などが遺族らを慰めた。地域の拠点として寺社の存在意義が再認識され、あまり報道はされなかったが、各宗派教団の多岐にわたる支援活動が担った役割も小さくはない。その活動は昨年の能登半島地震・水害まで連綿と続けられている。
歴史学者の北原糸子氏は「日本人は近世以来、死を弔う役割を担ってきた寺院への基層的観念が存在し、それが東日本大震災によって再認識されつつある」と『震災と死者』に記している。
南海トラフ巨大地震に戻ると、マグニチュード9クラスで死者の7割強が津波によると想定し、対策のポイントなどを挙げている。だが「土葬の可能性を考慮した遺体処理対策の検討」など、幾つかの役所的文章からは死者への心遣いが伝わってこない。
死者の弔いは、やはり宗教者によらねばならない。とはいえ主たる被災地と想定される都市部の膨大な死とどう向き合うか。歴史に問われる試練となるだろう。