多様性と寛容の希求 普遍的慈愛を説く宗教の役割
京都府立大教授 川瀬貴也氏
先日、話題になっていた映画「教皇選挙」(エドワード・ベルガー監督)を鑑賞した。前評判通り大変面白く、実際のコンクラーベに前後してこのテーマの映画を見るのも、恐らく最初で最後であろう。映画は密室でのサスペンスな訳だが、現実のカトリック教会が抱えている諸問題もうまく練り込まれていたと思う。列挙すれば「今やカトリックの人口は、中南米やアフリカ、アジアの方が多く、既にヨーロッパの宗教ではなくなっていること」「カトリックの抱えている数々のスキャンダル(性的なものも含む)が影を落としていること」「多様性の承認(例えば同性婚など)をめぐって揺らぐカトリック教会の現状」などがストーリー上も鍵を握っていた。
もちろんこれはあくまで映画であって、実際に日本から今回「現実」のコンクラーベに参席した菊地功枢機卿はブログ(「司教の日記」で検索)において、よくできた映像と認めつつも「ストーリーはちょっと荒唐無稽だなと思います」「映画にあるように、あからさまな票のとりまとめとか(中略)生臭い話は、残念ながらフィクション」と述べている。要するに映画は面白く作りすぎているのであろう。しかし、菊地枢機卿も述べるように「枢機卿団は、教皇フランシスコが、第二バチカン公会議から始まって、歴代の教皇が進めてきた教会の改革を、さらに完遂しようとされた方向性を継続し、同時に明確な教えを持って教会の一致を確立する牧者を見いだすことに努め」た結果、選出された新教皇レオ14世が「多様性」を重視する立場であることは間違いないであろう。少なくともそれを期待したいところだ。
しかし、世界を見渡すと、残念ながらその「多様性」に対する「反動(バックラッシュ)」が勢いを持っている。その最たるものが、現在進行形の第二次トランプ政権であろう。言論・学問の自由や移民に対して、アメリカがこれほどまでに攻撃的な社会に変貌したのに私が驚いたのは、恐らく戦後にアメリカから民主主義を「移植」された国の国民として、アメリカに幻想を持っていた故でもあろう。そして一人の研究者、大学人として、トランプ政権の大学批判(というより、もはや攻撃)にはもちろん反対であるし、今や「対立者」をも含めて政治を行うという国家指導者としての建前までかなぐり捨てている現状には呆れるほかないが、残念ながら、これを「対岸の火事」として高みの見物をしているわけにはいかない。
例えばガザの惨状は言うまでもないし、現在でもアフガニスタンでは、女性の活動に大きな制約をかけているタリバン政権が存在する。二十数年前の第一次タリバン政権が成立した時も、まるでマーガレット・アトウッドの『侍女の物語』(キリスト教原理主義がアメリカを支配したと仮想したディストピア小説)が現実化したように思えて戦慄したが、アメリカの現状は「とうとう本家のアメリカでも」という感慨を催させる。残念ながら、今ほど多様性と寛容さが希求されている時代はないのかもしれない。それに貢献できるのは、近代的な人権思想と並んで、普遍的な慈愛を説く宗教であろうと思う。