為自と為他
インドの古典語・サンスクリットは、文法規則や語形変化が極めて複雑で、世界で最も難解な言語の一つといわれる。釈尊の教説の真意を知りたいと誓願し、仏教学部やインド哲学科の門をたたいた青年も、たちまちその複雑な文法体系に頭を抱え、予習復習に眠れぬ日々を過ごすことになる◆動詞の活用も特徴的だ。英語など近現代の印欧語は動詞を能動態と受動態に分類するが、サンスクリットでは能動態をさらに、他人のための行為「為他言」と自分のための行為「為自言」に分類する。例えば「布施をする」「導く」は原則、為他言で活用し、「瞑想する」「苦行する」「努力する」等の動詞は原則、為自言として用いる◆このような動詞体系は、行為の帰属を強く意識させる。仏教は自己という固定的な実体を否定するが、その背景には自と他を明確に区別する言語的な土壌があったのではないだろうか◆一方、中国語や日本語には為自と為他の区別はなく、動詞自体は動作の帰属先を示さない。このような文法体系は、印欧語と比較して緻密さに欠け曖昧だと指摘する声もある◆しかしその曖昧さ故に、私たちは、自己と他者が縁起の関係で存在していることを自然に理解できるのではないだろうか。自利と利他の両立を旨とする大乗仏教が東アジアで広く根付いたのも、そのことと無関係ではないように思える。(奥西極)