墓所から聖跡へ―鎌倉期の専修念仏と法難事件(1/2ページ)
佛教大仏教学部准教授 坪井剛氏
京都東山・円山公園の北側に大きな伽藍を構える知恩院は、浄土宗総本山として多くの参詣者が訪れる。中心堂舎の御影堂(国宝)は寛永10(1633)年に火災で焼失した後、同16(1639)年に3代・徳川家光(在職1623~51)の寄進で建立された。現在の堂舎は近年、大修理が行われ、昨年10月に落慶を迎えたことも記憶に新しい。
江戸時代の火災以前にも、同院は度々焼失の難を被った。応仁の乱での罹災は有名だが、その前の永享3(1431)年や永正14(1517)年にも堂舎が炎上し、再建に励んだとの記録が残る。火災は木造建築の宿命とはいえ、同院の沿革は火災からの復興の歴史とも言える。
幾度の焼失にもかかわらず、なぜその度ごとに再建されたのか。一概には答えられないが、要因には同院が祖師法然の「聖跡」であったことは指摘できる。いかにして、彼の地は法然の「聖跡」となったのか、経過を追ってみたい。
建永2(1207)年、法然は朝廷から流罪に処されたが、同年中に赦免され、建暦元(1211)年11月にようやく京都に戻った。帰洛後は、青蓮院門跡(京都市東山区)の慈円(1155~1225)の沙汰により用意された「大谷の禅房」に居住していたようである。慈円は、法然に帰依した九条兼実(1149~1207)の同母弟であり、兼実自身は既に亡くなっていたが、兄への配慮もあって住居の世話をしたのであろう(ちなみに『愚管抄』を見る限り、慈円自身は専修念仏に批判的である)。
帰洛の時点で法然は既に老齢であり、日頃からの不調も進んでいたらしい。翌建暦2(1212)年正月25日、伝記類によれば種々の奇瑞を示しながら、法然は80歳で没した。
その後、遺骸は「住房の東の岸の上」(『法然上人行状絵図』巻38)に葬られたとされる。つまり慈円の用意した「大谷の住房」の隣接地に法然の墓所は作られた。同墓所が、後の専修念仏に降りかかる騒動の中心地となっていく。
その騒動とは法然没後、約15年で起こった「嘉禄の法難」事件である。嘉禄3(1227)年6月17日に延暦寺大衆は三塔会合を開き、専修念仏問題の朝廷への奏聞を決定した。これは法然の弟子であった隆寛が『顕選択』という書物を著し、専修念仏への批判に反論したことが原因であったとされるが、法然在世時から続く専修念仏批判が同書をきっかけに再燃したと見る方が妥当だろう。
重要なのは、延暦寺大衆が問題を朝廷に奏聞しただけでなく、祇園社の犬神人に先ほどの法然墓所の破却を命じた点にある。伝記には、法然の遺骸を鴨川に流す計画があったようだが(『法然上人行状絵図』巻42)、実際に22日に行われた襲撃では、六波羅の武士たちが制止に駆けつけたため、建物の破却までで済んだようである。
この事件をきっかけに、法然の弟子たちは時の青蓮院門跡・良快(1185~1242)とも相談し、法然の遺骸の改葬を計画する。その結果、武士たちに警護されながら、法然の遺骸は嵯峨に移され、粟生野(現在の西山浄土宗光明寺の地)で荼毘に付された。
なぜ法然墓所が襲撃対象となったかは興味深い。この点を考える上で重要なのは、法然没後、10年程で作成されたと考えられる『知恩講私記』の記事である。同文献によれば、当時の法然墓所には、多くの人々が参詣しており、特に法然の命日である正月25日や月命日には、あたかも「市場」のような賑わいを見せていたと記されている。つまり法然墓所は、多くの専修念仏者たちが集まる「拠点」となっていたのである。