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第22回「涙骨賞」を募集
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晩年の清沢満之と真宗大谷派宗門(2/2ページ)

真宗大谷派教学研究所研究員 藤原智氏

2023年5月31日 13時26分

こうして莫大な負債が表面化した翌月、『中外日報』6月14日付に「鴻池銀行と大谷派の訂約」という記事が掲載された。その内容は、法主・新法主および渥美の名で、鴻池銀行と誓約書・契約書を結んだというものである。

具体的には、大谷派が鴻池銀行から100万円を借り入れることと共に、教学資金の募集を行い、その募集中は東京真宗大中学を閉校することなどが報じられた。これは直後の同紙に取消記事が掲載されたが、大学関係者には多大な衝撃となったであろう。真宗大学は学則第33条(『宗報』第四号)により、大谷派僧侶からは授業料を徴収しておらず、ほぼ宗門の予算によって運営されていた。宗門の財政危機は、真宗大学の存続に直結するのであった。

清沢と渥美、それぞれの方針

宗門人が等しくこの危機に迫られる中、清沢たち大学関係者の採った方針は、新法主大谷光演にしばらく宗政から離れて、東京で修養に専念してもらうことであった。大谷派は門徒の懇志で成り立っているため、財政再建の道は宗門の信頼回復しかない。だからこそ、これから宗門を背負うべき新法主に、世間の信望を集める人物に育ってもらわねばならない、ということである。そして7月、清沢たちは新法主の東京在住に関し渥美と覚書を交わし、さらに京都へ足を運び、法主現如にその許可を直訴したのであった。

これと同時に渥美も行動を起こす。それは鴻池銀行からの借入を実現するため、伯爵井上馨に仲介を依頼することであった。しかし、この交渉は難航する。10月初頭、渥美は清沢に書簡を送り、学校経費や7月の覚書と引き換えに、井上馨との交渉に賛同するよう要請するのであった。

その後、渥美は会計評議員を連れて東上、11日に浅草別院で大学関係者と会見を行う。ただし、清沢は妻の看病のため三河の自坊に帰っており、不在であった。会見では、井上馨との交渉の賛否を問うた渥美に対し、賛否を答えることはできないが反対はしないと月見が返答した。

この会見が行われた頃、清沢のもとに、渥美が新法主を煩わせるという情報が届く。何故なら、法主・新法主の両名が揃って助力を要請することを井上馨が条件としたからである。井上馨としては、大谷派の分裂を防ぐ意味合いがあった。清沢の意見は、新法主はしばらく宗政に一切関わるべきでないとして、新法主の井上馨訪問に反対であった。

大学騒動と清沢の学監辞任

さらにこの頃、大学に騒動が持ち上がる。それは学生たちによる大学刷新の動きであった。具体的には、中学校の教員免許取得と教員の充実を要望し、かつ責任者として関根の辞職を求めるものであった。清沢は急遽東上し、月見・関根らと対応を協議する。その結果、21日に関根が、22日に清沢が辞表を出すこととなった。この清沢の学監辞任により、大学騒動は一気に沈静化したのである。

清沢の急な辞任には、恐らく理由がある。そのことは月見が関根に宛てた書簡によって示唆される。そこで月見は大学騒動を巡って「臭味之根源を索し来らハ多少之関係を水屋に有するコト曽て想像せし所の如きか」(『関根仁応日誌』8―193)と記している。清沢たちは大学騒動の裏に渥美(水屋)が関係していると想像していた。それは、騒動を口実とした渥美の大学運営への介入を想定していたのだと考えられる。清沢の辞任は、実は大学存続のための渥美対策であったということである。

渥美との交渉の行方

大学騒動が終息した後の10月27日、新法主の動向を巡って清沢たちは再度渥美と会見を行う。そこで、「新法主に井上馨訪問の意はあるが有志がそれを拒んでいる」と井上馨に説明することで渥美と合意をした。

その後、清沢は翌月5日に帰郷するのだが、渥美は11日に新法主を井上馨の元へ連れていくのである。そして渥美は、本山での評議員会で「東上の事は好結果である」と報告した(『中外日報』02年11月30日付)。

こうして渥美は井上馨の助力を取り付け、12月と翌年2月に行われた宗門の議会に臨むことになる。その際、清沢も上山し、同志と対応を協議していくのだが、宗門は渥美の方針に向いていく。清沢は失意のなか、まもなく03年6月6日に病没するのである。その詳細については紙幅の都合上割愛したい。

従来注目されてこなかったが、最晩年の清沢は宗門の耆宿、そして大学学監として、継続的に渥美と交渉を行い、宗政に深く関与していた。そこには大谷派の将来に向け、財政と教育をいかに立て直していくのかについて、清沢の責任感があったのである。それは単に過去の事でなく、これからの宗門を考える上でも、見直すべきものがあるのではないだろうか。

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