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第22回「涙骨賞」を募集
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高野山奥之院の秀吉五輪塔(2/2ページ)

高野山大密教文化研究所受託研究員 木下浩良氏

2024年5月13日 10時32分

秀吉の五輪塔の開眼式も、昭和15(1940)年5月17日に挙行された。秀吉の五輪塔の造立は、皇紀紀元2600年奉祝としてなされたものであった。この日、野村吉三郎海軍大将(日米開戦時の駐米大使。真珠湾攻撃の日まで日米交渉に奔走して戦争回避を模索)、松井石根陸軍大将(中支那方面軍司令官。欧米列強の侵略に対しアジア諸国が連携して対抗していこうと主張。東京裁判で絞首刑)をはじめ、中部防衛司令官、阪神海軍部長、京都帝大総長、大阪帝大総長、造幣局長、大阪控訴院長、和歌山県知事、大阪府知事、京都府知事、大阪市長、大阪逓信局長、大阪税務監督局長、大阪税関長、大阪毎日新聞社会長、大阪毎日新聞社社長など、各界から多数の参列者の下に開かれた。

五輪塔造立は、秀吉の石塔が高野山に存在しないことにより、鳥井信治郎氏が発願したものであった。前記のように、石塔造立に際して、一字一石法華経(経典の文字の一つひとつを小石に墨書したもの)・京都の豊国廟域の霊土と、高野山壇上伽藍の孔雀堂より発見された秀吉の古木像が五輪塔内に納められた。落慶式では大師教会本部にて秀吉の古木像への開眼法要が行われ、奥之院では千人程の僧侶が参集して、まさに千僧供養が秀吉の五輪塔の前で営まれた。

豊臣家墓所といいながら、肝心の秀吉の五輪塔が存在しなかった理由は、秀吉が豊国大明神という神様になったことが、その理由ではないかと推察される。徳川家康にしても、高野山には東照大権現という神様になった家康を祀る東照宮は存在しても、奥之院には、石塔が造立されることはなかったことと同じである。

豊臣家一族の石塔

豊臣家墓所の秀吉の五輪塔の他の石塔のほとんどは、豊臣家一族のものである。概略を紹介する。前列向かって左端の一つ目から右端の八つ目を順に①~⑧として、右側に2基並ぶ石塔を奥から⑨と⑩として番号を付けた。石材は10基とも、砂岩製である。
 
①宝篋印塔 無銘で誰の石塔なのか不明。総高139㌢。
②秀吉姉の智(とも)五輪塔 銘文は「天正廿年、三位法印後室、逆修、五月七日」。総高122・5㌢。天正20(1592)年の紀年を刻する。
③慶安四年五輪塔 銘文は「施主生国相刕住浅野清兵衛友重立之、法性院殿□□得授大姉、菩提、慶安四天三月廿一日入寂」。被供養者不明。慶安4(1651)年の後世の石塔。総高149㌢。
④豊臣秀長夫人五輪塔 銘文は「大納言殿北方慈雲院芳室紹慶、逆修、天正十九年五月七日」。総高193㌢。天正19(1591)年の紀年を刻する。
⑤秀吉弟の豊臣秀長五輪塔 銘文は「大光院殿前亜相春岳紹栄大居士、天正十九年正月廿二」。総高185㌢。天正19(1591)年の紀年を刻する。
⑥秀吉母の大政所五輪塔 銘文は「天正十五年、青巌貞松、逆修、六月廿一日」。総高164・4㌢。天正15(1587)年の紀年を刻する。
⑦天正期五輪塔地輪 銘文は「天正□□年九月廿五日、金光□□□」。被供養者不明。地輪のみ残す。高さ44㌢。上部に別物の不動明王石仏を置く。
⑧秀吉養女の豪姫五輪塔 銘文は「前大相国秀吉公御養立息女、樹正院殿命室寿光、逆修、慶長廿年卯月十五日」。総高182㌢。慶長20(1615)年の紀年を刻する。
⑨秀吉長男の豊臣鶴松五輪塔 銘文は「天正廿秊、浅野弾正少輔造之、玉巌麟公神童、二月時正」。総高177・1㌢。天正20(1592)年の紀年を刻する。
⑩御上臈五輪塔 銘文は「天正十七己丑、御上臈、逆修、七月初三日」。御上臈とは秀吉の側室の「松の丸殿」か。総高168㌢。天正17(1589)年の紀年を刻する。

以上、10基のうち3基は不明で他の7基が秀吉周辺の人物ということになる。さらにその内の5基が、造立者である女性が自身のために造立した石塔で、生前葬の「逆修」をして造立をしたものである。

昭和14(1939)年に豊公会が秀吉の五輪塔を造立した当時、豊臣家墓所のこれら石塔群は転倒してバラバラになっていた。豊公会の鳥井信治郎氏は秀吉の五輪塔だけでなく、これら豊臣家一族の石塔群を整備して、現状のように復したのであった。

現在、奥之院の豊臣家墓所は和歌山県指定文化財となっている。このことも、鳥井信治郎氏による秀吉の五輪塔造立が経緯となっていることを再認識したい。

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