「寺子屋学習塾」で地域社会の再興を(2/2ページ)
学校法人清風明育社参与・前高野山大特任教授 今西幸蔵氏
「寺子屋学習塾」構想は、寺子屋での学びを現代社会に再現させられる可能性はないだろうかと考えた結果である。寺社という宗教的・文化的環境があるがゆえに、学ぼうとする人々には心に響く教養が得られる利点がある。近世期、それ以前も含めて、日本の諸地域には寺院や神社、鎮守の森があり、それが地域住民にとっては「ふるさと」の心象風景であった。第一次産業中心の社会は、自然との共生が不可欠であり、それが信仰となっていたのであろう。自然に関わる神秘的な事象に対する憧憬が心象風景を醸成したに違いない。
それが、第二次産業社会の到来によって大きく変質し、第五次産業に向かう今日、「ふるさと」はノスタルジックな対象となってしまった。生活様式が変化し、消費生活は豊かなものに変質したが、今や人類社会全体が行き詰まり、SDGsに見られるような自然回帰が主張されるようになった。以前のような自然への回帰は不可逆的であり、新しい形態の自然との共生社会になることは間違いない。AIの普及で、今や反作用のように精神文化を求める時代に入りつつある。新しい「ふるさと」の創造がこれからの課題となる。
筆者が提唱する「寺子屋学習塾」には、以下のような形態と機能を想定している。寺社の境内の一隅に「学習の場」があり、そこで学ぼうとする人は年齢や発達段階、社会的階層を問わず誰でも足を運ぶことができる。「居場所」として人が集まり、生涯学習の場を形成する。運営主体は地域住民かNPOで、多くのボランティアを必要とするが、生涯学習の場であるから講師も必要である。「居場所」であるから、やって来られる方に学習を強いることはない。
幼児・児童も通うことができ、保育的な活動や自主学習の場としても利用できる。運営資金は、学ぼうとする人々が提供する金銭に加えて、CSRとしての民間企業からの資金提供、及び一定程度の行政支援で対応する。場合によっては民間ファンドで財政を支える。資金使途は、学習塾の管理運営費、講師等への謝金、寺社の借料、消耗品、食糧費などである。
それでは、現代の「寺子屋学習塾」では何を学ぶのか。まず、成人基礎教育の場であってほしい。義務教育を修了したとはいえ、時代の変化もあり、成人としての基礎的知識とスキルを十分に身に付けているとは言い難い人もいる。たとえばICT活用能力は成人としての基礎的スキルである。外国語学習も必須であると同時に、在留外国人の日本語教育も視野に入れる必要がある。成人基礎教育の充実が必要であるが、さらにフォローアップした学びが求められる。この段階の学びとなると、学習領域が多種多様化し、事業を運営する側の対応が大変であるが、可能な範囲で適切なプログラムを企画・立案し、幅広い広報をして学習者を募集し、実際に学習会を開くことになる。学習内容は、地域住民の学習ニーズに基づくことが大切で、防災教育、金融教育、人権教育等の必要課題学習も重要である。
ある自治体における青年期や壮年期の人たちの学習ニーズ調査をしたところ、従前は習いごとや趣味、健康・スポーツ関係の学びが多かったが、近年の傾向ではあるが、職業・技術に関わる学習要求が増加している。いわゆる、リカレント教育に属する領域である。成人の学びに対する見方、考え方が少しではあるが変化しつつあると感じる。こうしたプログラム運営のノウハウについては、公民館などの社会教育関係施設と連携・協力すれば理解できる。専門的運営となると、社会教育主事や社会教育士資格を持つ人を起用すれば良い。
ここでは、「学びの場」としての機能を示したのであるが、「寺子屋学習塾」は「集いの場」「語り合う場」というような自由な活動空間であることも必要である。高齢者、壮年期の人、青年期の若者を問わず、だれかと話せる場が必要と考えるからである。そこに行けば人と会える。だれかと悩み事が相談できる。そういう出会いの場でもあってほしい。
これまで述べてきたような構想が「寺子屋学習塾」である。住民にとっての「居場所」であり、「学びの場」であり、自由な「集いの場」だと考えて良いだろう。寺社には、宗教的儀式や葬祭という重要な役割があるが、境内の一隅にある「学習塾」に常時、地域住民が足を運ぶようになれば、新しい「ふるさと」が誕生するのではないかと考える。