三木清 非業の死から80年(2/2ページ)
大阪教育大名誉教授 岩田文昭氏
第二に、浄土真宗の研究の綿密さが明確になった。三木は『教行信証』理解の多くを真宗大谷派の学僧である山邊習學・赤沼智善の『教行信証講義』に依拠している。ところが、教行信証解説書として定評あるこの著作にも、いくつかの誤記や誤読がある。三木はそれらの点に疑問符をつけながら読み進めており、正確な『教行信証』理解を示している。
具体例をひとつあげれば、『教行信証』化身土巻末の論語の読み方に関して、山邊・赤沼とは異なった、親鸞の文章の正しい引用と読解をしている。三木が教授を務めていた法政大学には、生前所蔵していた書物の一部が「三木文庫」として保管されている。そこには相当数の仏教・浄土教の書物があるが、三木はそれらを読みこんでいたのである。三木は勉強家として有名であったが、親鸞を論じるにあたっても並々ならぬ情熱を注いでいた。
第三には、三木の歴史哲学と遺稿「親鸞」の密接な関係が読み取れるようになった。三木が京都帝国大学に提出した卒業論文の題目が「批判哲学と歴史哲学」であったように、歴史哲学には若いころから一貫して関心を抱いていた。1932年4月に刊行した『歴史哲学』では、西洋の思想家・哲学者の論を縦横無尽にひいて、歴史哲学の問題を論じている。
ただし、ここでの論は、抽象的な理論として提示されるにとどまっていた。遺稿「親鸞」では、『歴史哲学』で準備された理論が血肉化された、生きた「歴史的事実の叙述」として『教行信証』が論じられている。親鸞の思想に「倫理的であり、実践的」なものを認め、その歴史観に「伝統のうちに新しいもの」を作り出す契機を見いだすことに三木の力点はあった。三木が現在における歴史的意識をもって生きることの必要性を論じようとしているさまが読み取れる。
こうした観点から、『歴史哲学』との接続が明確になった結果、三木が構想していた「社会倫理」の輪郭が浮き彫りとなった。これが第四の重要な点である。三木の最終的な関心は、信心に立脚した社会倫理の構築にあった。彼はその構築に際し、真俗二諦論を援用したのだが、真俗二諦論は、敗戦後、国家神道を支え、戦争を遂行する戦時教学の論理であったと批判を受けるようになった。そのため、三木の遺稿「親鸞」もしばしば批判的に言及されることになった。
とはいえ、三木の論述を注意深く読んでみると、真宗における本来の俗諦は、念仏者がいかに歴史的現実に向き合うかを問うことにあると主張している。親鸞の真俗二諦論の使用法からしても、歴史的現実と結びつけて理解しなければならないというのが三木の積極的な意見である。
「平等」や「御同朋」の思想が、阿弥陀仏の本願という真理から導き出されるとしても、そこから自動的に倫理的実践が導かれるわけではない。自らが生きる時代と根源的に向き合いながら、伝統を踏まえつつ、新たな倫理を創出しなければならないというのである。三木はこうした視座から、真俗二諦の教義を「歴史的意識に基づいて理解されるべき」だと述べたのである。
このように、三木は自らの歴史的意識と時代精神への自覚を深めながら、あるべき社会倫理の在り方を探究していた。もし彼があと数年でも生きていれば、原稿を完成させるのみならず、新たに誕生した民主主義国家の中で、社会倫理について積極的な発言を行っていただろう。現代に生きていれば、戦争や核の問題にとどまらず、環境倫理、ジェンダー、ナショナリズムといった課題に対しても、歴史的意識に根ざした論考を展開していたに違いない。
三木の遺稿「親鸞」は、浄土教における社会倫理のあり方を考える上で、今日なお多くの示唆を与えている。それは、既成の倫理を無批判に受け入れるのではなく、時代に即した新たな倫理を実践的に構築すべきだという視座である。遺稿「親鸞」は、私たちに対し、倫理の原理を提示すると同時に、新たな倫理の構築を促しているのである。
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