《宗教とAI④》予測不可能性と創造の主体(2/2ページ)
帝京科学大理事長・学長 冲永宜司氏
これらは事実上、事前予測が不可能であった。しかし作者の意図や計画を超えて成立した作品、または偶発的な欠損を被った作品が、結果として歴史的評価を獲得したのである。だからこそこの予測不可能性は、純粋な創造、霊感の働きであるかのように見えるのである。しかしその不可能性は原理的なものというより、程度の問題なのかもしれない。ならばAIが第二第三のミロのヴィーナスやモナリザに比肩する作品を創作する可能性は原理的には否定できない。もっともその可能性は、人間にも同様に開かれているのだが。
ただし、創作上のどのような微調整が原理的に予測不可能なのかという問いは残る。たとえば自分が将来、どのような配色パターンに心惹かれるかという予測は、その予測行為自体を計算に含める必要もある。将来の自己の脳内状態は、その状態を予測する行為から独立であることはできないからである。美の計算不可能性を確保しようとする形而上学的な要求に応えるなら、この類の不可能性は私たちの具体的な精神活動のあちこちに遍在している。そしてそれらは、人間においてもAIにおいても、理由や原因のない直観や気づきの類が働き得る空間を保証するかもしれない。
この理由なき直観と創作との関係で注目されるのが、規則の内にいることから、規則に気づくことへの飛躍である。後者は新たな型の発見であり、それを具体的に形作る創造的行為を導く。芸術的創造のみならず、法則の発見や新たな概念の創出もこの型の具体化、客観化に由来する。なぜなら規則に気づかずに従うことから、その規則の外に出ることが、その規則を把握することには必要だからである。
しかし、未だその外部のないパターンを形として客観化するためには、その形を容れるための枠組みが新たに設定される必要がある。パターンに気づく瞬間、それを容れる枠は必要ないが、パターンが形として客体的に描き出されるとき、新たな枠組みが造られていなければならない。人間はこの気づきと新たな枠組みの設定ができるが、AIの機械学習ではこれは難しい、と考えられてきた。
この気づきをダグラス・ホフスタッター(1945~)は「パターン感受性」と呼んだ。この言葉だけを見ると「感受」とは、それが可能な人間の特権のようにも思えるが、彼はこの「感受」と、未だパターンの中に留まることとは連続的な関係にあり、二者を明確に区別はできないと見なしている。様々に蓄積された記憶内容が、不随意な仕方で一定のパターンの下に統合されることの顕在化が、この「感受」なのである。これは習慣性からの自然な逸脱であり、そこで生じたパターンの形から「美」も生まれるという。
このように、例えば芸術の創作において美のパターンに気づかずその表現が不能の状態から、パターンを外在化し創作表現に到ることへの飛躍は、人間にもAIにも可能なのである。しかもこれは純粋に形而上学的な意味での創造である必要はない。そうなるとAIには人間以上にパターン感受と創作表現の可能性があり、ましてや人間とAIとの境界がなくなり、共同で芸術や新たな科学的知見を創造する場面になれば、なおさらその傾向は顕著になるだろう。これはAIの主体性の問題にも関わり、そこでは主体が最初にあってそれがパターンを感受するのではなく、パターンが感受される空間の内に、パターン外在化の担い手として主体が生成されるという順序になる。これはAIでも人間でも同じである。
いずれにせよ、人間がAIに操られ取り込まれる状況、どこまでが人間の思考でどこまでがAIのそれかの境界が消える状況はすでに到来し、高まりつつある。その意味では、宇宙全体がすでにシミュレーションであるというニック・ボストロム(1973~)の仮説や、この仮説が影響を受けたフランク・ティプラー(1947~)による、すべての死者の記憶がAI化された宇宙において復活する宇宙論的終末論などは、それほど荒唐無稽ではないのかもしれない。
このように書くと、人間の主体性も意味もAIに支配される絶望的な未来が迫っていると感じられるだろう。しかし反対に、人間の創造性とAIのそれとが複合して、どちらか一方だけでは実現できない予測不可能な創造的宇宙が形成される期待も同様に許されるだろう。無論それは、人間がAIに支配され、奴隷化、さらに抹消される危険性の宇宙と表裏一体なのであるが。




