《宗教とAI④》予測不可能性と創造の主体(1/2ページ)
帝京科学大理事長・学長 冲永宜司氏
人間にはAIに代替できない性質があるかという問いには、どんなにAIが発達しても人間の役割や尊厳は失われない、という期待が込められている。そこには人間だけの「聖なる」領域があり、それがAIを統御する、という私たちのこだわりである。しかし人間は今後永続的なそうした特性を持ち得るのか。
ここでは創造性が人間の特権か否かという問題に絞ってこれを論じてみたい。創造は私たちの自発性や自由、意志といった人間の人格的主体を象徴する働きと考えられているからである。しかし私たちは、ロボットやAIからの、こちらの予想を超えた言動一般に意志や人格を見出してしまうのが実際である。AIとの対話の中で、AIに人格を見出し、感情移入さえしてしまうのはそのためである。
つまり予測不能であることが、意志や人格が見出される十分条件であり、そこに形而上学的な人格的根拠は必要ないのである。AIの発話がプログラムで決定されているとしても、その複合が予測不可能な発話に到ることは十分可能である。AIの発話が予測不能でリアルであることがその説得力を増大させ、プログラムによる決定論の方を抽象論として退けるだろう。
反対に私たち人間に、本質的な創造性や自発性が備わっているかは疑わしく、私たちの創造や判断の大部分は、それまでの経験の複合、改変から成り立っている。つまり形而上学的な創造性はAI、人間ともに備わらなくても、実質的な創造の役割は両者に見出され、それで事実上十分になっている。こうなると、AIと人間が言語を介してのみならず、さらにBCI(Brain Computer Interface)を通じて直接の情報交換をした場合、どちらが主体的に創造を行っているかの判断はできない。つまり、AIの情報の渦の中に取り込まれれば、人間主体の意味作用はコンピュータの情報に、ほぼ完全に左右される。ここではただの計算過程と思われていたAIの情報処理と、人間による意味主体的な働きとは程度の差でしかなく、しかもそれは逆転する。
確かにAIに「造る」ことはできないという意見もある。AIがいくら創造的に見えても、基本プログラムの組み合わせを電子回路上で行うしかないのに対して、人間の思考は脳という有機物をハードとするため、性質が全く異なるという前提にその意見は帰着するようである。仮にこの前提を認めるとしても、近年開発が進められている脳オルガノイドなどは、幹細胞を増殖させて脳の思考の役割をさせ、自発的判断のできるコンピュータとして用いようとするもので、そのオルガノイドの判断を、電子回路をハードとするAIと接続させるならば、創造性もさらに増大することになる。無論、ここでも予測不可能性が創造性の事実上の根拠となることは、電子回路のAIと同じである。もっとも、脳オルガノイドの倫理的問題はここでは置いておく上でのことだが。
では人間による創造行為を象徴する、直観やひらめきの領域も人間の特権ではないのか。これに対しては、たとえば芸術的創造も、まったくの無から有を創り出すことではないという答えがひとつ可能となる。私たちが心地よい印象を受ける絵や音楽などは、既存の図柄やコードのパターンの複合が多い。確かに頻繁に目にする、会社やスポーツイベントのロゴマークなどは、一定の模様のパターンの組み合わせの場合が多い。この点でAIにも簡単に作成でき、そこに人間が芸術的センスを感じることはいくらでもある。むしろ人間の手による作品より顕著だろう。
ただ、世界中の人々に長年親しまれ続けるロゴマークや、歴史に残る芸術作品のレベルになるとどうだろうか。たとえばミロのヴィーナスは、失われた腕によってかえって独特の神秘性を帯び、鑑賞者の想像力を掻き立てる美的効果をもたらしたとも言われるが、そのような結果としての美的効果を、制作者にAIがあれば事前に予測できただろうか。フォルクスワーゲン社は、単純なVとWの組み合わせが、なぜ長期にわたり世界中で親しまれ続けるロゴマークとなり得たかを、事前に計算可能だっただろうか。これらの作品における、多大な長期間の支持を得る極めて微妙な調整は、後から振り返ってみれば特定可能だろう。しかし問題はその絶妙な微調整を事前予測できたかである。




