戦後80年 教史探究の意義(1/2ページ)
天理大おやさと研究所教授 金子昭氏
昭和16年12月8日、日本軍は真珠湾を急襲し、対英米戦争が始まった。仏教系、神道系の教団機関誌では「宣戦の詔書」を冒頭に掲げ、これを踏まえた管長告諭を提示した。本稿では、とくに伝統仏教から真宗大谷派、また当時教派神道に属していた天理教の戦時時局対応を振り返ってみる。
真宗大谷派では『真宗』に「教書」と「諭達」を発表し、「挺身殉国の精神」を打ち出した。一方、天理教では『みちのとも』に管長の「諭達」を発表し、「献身奉公の至誠」を訴えた。総力戦は宗教教団を巻き込み、ここにきて後戻りできない地点に来てしまったのである。各教団の論説は、この後は昭和20年8月15日の敗戦の日までひたすら必勝の信念の鼓舞、戦時の心構え、そして挺身奉公の実践ばかりを説くことになる。
だが、ここに到るまでの行程があったことを忘れてはならない。半世紀以上も前から官製教化運動が何度も波となって出現し、次第に挙国一致の体制へと押し流してきたのだ。政府は社会教化の担い手として、人々に影響力を持つ宗教教団に注目した。
一方、宗教教団の側も公認宗教としての役割をそこに見出し、官製の思想運動の波に乗ることになった。
出発点は明治23年発布の教育勅語であった。日清・日露戦争をはさみ、これをベースに起こった国民道徳運動がその第一波である。いわゆる日本主義の思想もその中で醸成され、鼓吹されるようになった。大正期には、第1次世界大戦後に民力涵養運動、そして関東大震災後には国民精神作興運動と大きな波があった。昭和に入ると、その波は満州事変を経て昭和12年に勃発した日中戦争を機に国民精神総動員運動の巨大なうねりに展開する。この頃には、中国大陸での戦闘がずるずると拡大し、総力戦体制下に入っていた。宗教教団の関わりも次第に抜き差しならない状況になっていった。
そのような時代の大波の中で、各教団は教理の説き方にも制約が課せられるようになる。真宗教団にも文部省の指導が入り、不敬となる文言が伏せ字となり不拝読となった。また教義にも解釈の変更が求められ、東西本願寺ではそれぞれに真俗二諦論の意味を転換するなどして、国策に応じた“戦時教学”が形成された。来世では浄土に往生するが(真諦)、現世では天皇の忠良なる臣民となる(俗諦)。したがって、現世では何よりも「王法為本」が門徒の生活規範とされた。
真宗大谷派では、この生活規範は日中戦争直前には「皇運を扶翼し国恩に酬答」するべく、「同朋箴規」として制定された。また、親鸞聖人『御消息』にある「朝家の御ため、国民のために、念仏を申し合わせよ」という言葉を、「天皇のために、皇国のために奉公・献身しなさい」と捩じ向けて用いた。
また、暁烏敏や金子大榮らの宗門学者は阿弥陀仏の本願と天皇の大御心を重ね合わせ、一体化させる“戦時教学”を構築するところまで進んだ。しかし、そこまで進めたがために、戦後はこの戦時教学への反省が宗門内で厳しく行われた。そして、戦後50年の節目の平成7年に真宗大谷派は「不戦決議」を可決するに至ったのである。
一方、天理教では、“戦時教学”を形成することができなかった。なぜなら昭和13年末に政府当局からの指令で、不敬になる教理の引用を禁止し、全教会から「おふでさき」等の原典を回収し、教団の書店に並んでいた教理書の大半を廃棄することになったからである。これにより、教祖の教えの肝腎なところが説けなくなり、“戦時教学”の構築は不可能になった。この時期を天理教では「革新」の時代と呼ぶ。
『安芸国神名帳』奉唱の再興 神仏合同の世界平和祈願祭を契機として 瀨戸一樹氏4月3日
はじめに 令和7(2025)年、終戦80年の節目の年を迎えた。今なお世界では戦禍で苦しむ人々が後を絶たない。同年12月、被爆地・広島で活動する広島県青年神職会・広島密教青…
《宗教とAI③》AI時代に深める対機説法 井上順孝氏2月27日
AIへのアウトソーシング 2024年度に某大学で講義していたとき、学生が提出するレポートにAIを使っている割合が急に増えたのを感じた。宗教について初めて教わった学生が書く…
《宗教とAI➁》ブッダボットで変わる仏教 亀山隆彦氏2月12日
一、 筆者は日本仏教専門の仏教研究者だ。特に古代~中世の日本密教の実態解明を目標に研究を続けている。近年、その作業を通じて、ある理解に到った。それは日本仏教僧が高度な思想…





