標語の言葉の力 行いに裏打ちされてこそ(1月24日付)
広島市の真宗大谷派超覚寺は、はっとする掲示板標語で知られる。「行き先が決まれば行き方も決まる。往き先が決まれば生き方も決まる」「辛いことが辛いと言えない辛さ」――。これらの言葉に人の心に訴え掛ける深い力があるのは、実は宗教者としての行いという内実が力となっているからだ。
様々な文献や発言からも引用して毎日、新たな標語を掲げる和田隆恩住職の気に入りは「仏の顔は何度でも」。これは、困っている人に僧侶として寄り添うに当たって、決して逃げずに苦しみを共にする姿勢を物語っており、現に寺では自死遺族らの分かち合いの会などの活動を何年も続けている。
夫を亡くした女性の「和の集い」でも、住職は聞き役で何人もの参加者が胸の内を語り合う。悩みを自分だけにしまい込んで孤立する人が「自分の話を誰かに聴いてもらう、誰かの話を聴かせてもらう、それによって悲しみが癒やされる」と和田住職。そこでも、それまで人に言えなかった苦しさを口に出すことによる言葉の力、そして「自分だけじゃない」と感じられる「共苦」の力が働く。
住職がその場であまりしゃべらないのは、僧侶が発言すると“正解”のように取られてしまってよくないからだという。同様に標語も、あえて解釈や説明を付けないのは、人によっていろんな受け取り方があっていいと考えるからだ。「見た人に自分で考えていただきたい。自分の境遇にどう向き合うか、自分をどう保ち整えるか。世の大きな苦は簡単になくせはしないが、苦の質を変えていくことができればいい」とも。
元々、サラリーマン時代に仕事に行き詰まり自死を考えた際に出会った寺の掲示板の標語「人生に花が咲こうと咲くまいと、生きていることが花なんだ」というアントニオ猪木さんの言葉に肩の力が抜け、和尚さんと接して楽になった経験が、仏教者を志すきっかけであり標語作りの動機でもある。
自らもそうされたように、聴いた他者の苦悩を阿弥陀仏に伝える「バケツリレー」が僧侶の仕事と心得る。「僧侶は仏の法施の代行者。掲示板などの言葉も辻説法の法施です」。そして仏教の目的は無畏施、つまり人々の恐れを取り除いて安らぎを与えること、その手段として法施があると考える。
「仏の顔は何度でも」と人を安らかにする言葉の力を引き出すのは、発した側の行い、受け取る側の共感だ。それは普段でも、そして例えば能登半島地震で早速苦の現場に駆け付けた宗教者たちが困っている被災者に寄り添いながら掛けている言葉でも同じことだ。