データ保存の問題 消されたオウム関連資料(2月9日付)
図書館や博物館、大学などでデジタルアーカイブの構築が進んでいる。技術の進歩で、文字情報だけでなく画像や動画もデジタル化し、画素数をさほど劣化させない状態で保存が可能になっている。
過去の史料をデジタル化し、多くの人が参照できるようにすることは、文化の継承にとって重要な作業である。それは継承してきた貴重な情報の保管であると同時に、過去の過ちを繰り返さないための警鐘としての役を持つ。
とはいえ、全ての過去の史料やデータをデジタル化することが困難な場合もある。そのときは選択しなくてはならない。その作業を誰が担当するか。この点を軽んじると、せっかくのデジタルアーカイブ化に弱点が生じてしまう。宗教に関わる出来事の記録もまたデジタルアーカイブが必要になる。その際の判断は、社会的にはまだおぼつかない状況である。宗教研究者や宗教界にとっては衝撃的とも言える例を一つ挙げる。
2022年11月に、ある学生がオウム真理教解散命令事件に関する東京地裁の全記録が破棄されていたことを「ツイッター(現X)」に投稿した。オウム真理教関連の事件を調べていて、地裁に資料請求したところ、06年3月に破棄されていたことが分かったという。民事事件の地裁記録は5年経過すれば破棄してもいいので、違法ではない。史料的価値の高い記録は期間満了後も保存し、「特別保存」することを義務付けているが、その判断は裁判所である。
また23年には、神戸家裁が1997年に起きた連続児童殺傷事件の全記録を、保管期限が過ぎた後に廃棄したことが明らかになった。これは弁護士によって指摘された。これらには何が重要な史料か、後世に伝えるべき事柄は何かの観点が決定的に欠けている。
紙の保存には広い保管用スペースと多大な労力が必要になる。重要でない史料は一定期間の後の破棄も、ある程度はやむを得ないだろう。デジタルアーカイブ化は残せる史料を大幅に増やすが、残すかどうかの判断をする人間の側にそれに対応したリテラシーが備わっていなければ、せっかくの新しい技術が十分生かせない。
宗教に関わる出来事には、残したいものもあれば、忘れたいものもあろう。だが、忘れたいものの中には、将来への教訓が含まれている。宗教が生み出した大事なものを伝えていくと同時に、宗教活動がもたらした負の面にも目を背けず、向き合う姿勢が大事である。宗教団体がデジタルアーカイブ構築に取り組むときも、その点は肝に銘じておかなければなるまい。