能登被災地で必要なケア 支援・被支援の関係超え(3月6日付)
能登半島地震から60日余。生活の支えも「心のケア」も、被災者支援のニーズは広がる一方だ。石川県の現地では、例えば輪島市の避難所では70代女性が自宅が全壊して老母が亡くなったことに「助けられなかった」と苦悩を訴え、珠洲市の津波被害地では中年男性が我が家も近所も壊滅し多くの知人が犠牲になった悲嘆を口に出していた。
大事な家族や生活の全てを突然に失った底知れない悲嘆、今後の見通しがつかない不安が人々にのしかかっており、東日本大震災でも見られたPTSDや抑うつ状態の悪化、自死念慮などの心配とともに、グリーフケアの重要性が痛感された。
一方で、被災家屋の片付けや炊き出しなどもまだまだ必要だ。阪神・淡路大震災の際、多くの被災者に寄り添い続け「心のケア」という概念と言葉が広く知られるきっかけとなった精神科医の中井久夫氏が著書で「ボランティアは、その場に存在してくれることが第一の意義だ」と述べているように、活動自体が精神的支えともなる。
そして注目すべきはそんな支援活動の場で、被災者と支援者とのつながりが広がっていることだ。輪島や珠洲の炊き出しでは、ボランティアの調理に自宅を失った主婦が進んで協力し、また自ら被災しながら避難所の世話に入る女性が配食を積極的に手伝っていた。そこここで交流が見られた。
苦難の現場で自然に生じる「困ったときはお互いさま」の助け合い。そこでの温かい連帯は「支援・被支援」という垣根をたやすく越え、「共苦」とも言える対等な関係性が生じる。これは災害に限らず貧困問題などあらゆるケアや支援の現場でも同じであり、宗教者にとっても大事なことだ。
「炊き出しに並ぶイエス」という宗教画がある。冬のニューヨークで凍えながら食事を待つ野宿者たちの列、その中にイエスが並ぶ図柄だ。「神の子」であるイエスは決して施しをする「助ける側」にいるのではなく、「助けられる側」つまり貧しく寄る辺ない人々の側にこそいるという明快なメッセージだ。
その姿は貧弱で弱々しいが、そのようなイエスを含む「最も小さくされた人々」こそが、彼らを助けようと炊き出しをする人たちを実は支え、助けている。能登へ支援に赴いたキリスト者が「食べるものも着るものもない苦難の人たちの所にこそキリストがいる。そこへ会いに行き、彼がしたように痛みを抱えた人のそばにいるのです」と語ったのがまさにそれだ。