「お骨難民」 寺院の役割とは(3月8日付)
これまで日本人はお骨にこだわると言われていた。太平洋戦争の遺骨収集が戦後何度も繰り返されてきたのも、そこに理由があった。昨今、こうしたこだわりの意識が様変わりしてきたように思う。そもそも墓は要らないと、海洋葬のような散骨を選ぶ人たちもいる。現実問題として多いのは、先祖や家族の墓を維持することができないというケースだ。子供たちに負担をかけたくないと、合葬墓に合祀して墓じまいをする傾向も出てきた。実際、首都圏の1都3県では、自治体の運営する公営墓地の合葬墓がこの20年間で4倍にも増えたのである。
だが、墓は要らないとか、墓じまいをするとか言っても、人が亡くなったらいずれは何らかの形で埋葬しなければならない。故郷の墓地が遠い、費用がかかるなどの理由で、自宅の棚やたんすの上にお骨を置いたまま何年も経過している家庭も少なくないと聞く。独り暮らしで家族がいなければ、そうしたことすらできない。高齢多死社会の今日、終の住処である墓に入れない人たちのことを“お骨難民”とか“墓難民”とも言う。
核家族化の流れの中で家の継承が困難になり、故人を弔う者がいなくなれば、墓は無縁化していく。たとえそうであっても、自分が亡くなったら、誰かに手を合わせてもらいたいと願うものだ。公営墓地であっても、合葬墓はきちんと管理され、合同で祭祀も行われる。自分が亡くなっても、この世の人々に永遠に見守られているという安心感がそこにある。人間にはそのような生死を超えたつながりが大切である。
その点で、寺院には一つの強みがある。それは、墓を守る子孫がいなくても、墓碑を集めて三界万霊塔などの形で合葬し、合祀するという選択肢を最初から有していることだ。檀家家庭が無縁化しても、寺院に合葬墓があれば、その寺の僧侶をはじめ、墓参に訪れた人たちが手を合わせて冥福を祈ってくれる。それが永代供養となる。供養を通じて生者と死者とをつなぐところに、寺院の存在意義がある。
時代の流れの中で、従来とは異なる墓や供養の在り方が求められている。“お骨難民”を生じさせたのは、菩提寺と檀家との関係にも責任の一端がある。普段から檀家とコミュニケーションが取れていれば、状況に合わせて適切なアドバイスも可能である。個々の寺院レベルで十分な対応ができない場合は、宗門や本山で有効な指導を仰げる仕組みも必要であろう。その意味で“お骨難民”は仏教界全体の課題なのである。