AI時代と信仰 言葉を発する主体が重要 (3月29日付)
生成AIの飛躍的発達が国内外で様々な論議を巻き起こし、米国では訴訟も相次いでいる。宗教界もきちんと向き合うことが急務だが、以前に浄土宗総合研究所が開いた公開シンポジウム「AI時代の信仰」ではその論点が集約的に提示されていた。
シンポでは専門家からAI技術の最先端の解説とともに「極めて便利だが要は人間が使うべき“道具”以上でも以下でもない」との基本的視点が示され、生命倫理学者がAIによる自律型殺人兵器の問題など技術の暴走の危険性を具体的に指摘。だが、仏陀や菩薩とのやりとりを仮想した「ボット」と呼ぶ仏教対話AIについて、開発チームの大学研究者による発表には疑問も向けられた。
ボットは膨大な仏典の知識を学習させたもので、利用者の例えば「辛い時にはどうすればいいか」などの問いに現代語で答えるが、的外れな回答が多い未熟さはともかく、経典の言葉による解釈を援用した“高度な仏教事典”の域を出ない。そこには、それぞれ個別の悩みを抱えた人とそれに向き合う宗教者の姿はなく、「知識の解説」はあっても寄り添いはない。
同AI開発の動機は、「幸せになるための仏教の知恵が知られず、社会が仏教離れしていること」とされるが、そもそも“仏教の社会離れ”は、経典用語の単なる説明ではなく、教えと信仰に基づいた人々への現実の行いによる寄り添いが少ないからに他ならない。パネリストからは「これが普及するとますます寺に行かなくなるのでは」との鋭い指摘が出た。
開発チームはさらに高度化し、視覚的要素も加えた仮想空間まで目指しているというが、「究極はAIを信仰する人も出るのでは」「煩悩も苦もないAIは解脱者か?」との皮肉を込めた質問には、「神仏を信仰するのとどこが違うのか」と答える程度だった。
ボットに仏典は入力されても、人々に苦をもたらす現代社会の諸問題への目配りはあるのか。多数派意見を優先し差別的、ステレオタイプの危険性が大きいなどAI全般に言える陥穽だが、その性質は学習させるデータの種類を含めてAI設計者の思想や哲学の有無に大きく左右される。
便利だからといってもろ手を挙げて技術に拝跪する牧歌的思考は「信仰」とは程遠い。法話文作成などには利用価値が高いとしながら、パネリストの僧侶が「単なる言葉ではなく、それを発する主体が大事。機械ではなく生きた人間であるこの私たちが念仏の心で語らねば」との趣旨を繰り返し強調したのが本質を突いていた。