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高野山奥之院の大名墓 ― 憧れの聖地、全国の半分弱が造立(2/2ページ)

高野山大図書館課長心得 木下浩良氏

2014年8月27日

以来、奥之院においては大名家による大型の五輪塔造立ラッシュを迎える。奥之院で最大のものが、徳川秀忠夫人のお江の五輪塔である。花崗岩製で、五輪塔の総高490・2センチ、基壇の高さ312・5センチ。基壇と五輪塔を合わせた総高は802・7センチとなる。基壇の下部面は畳8畳敷き程の面積となっている。構造上も、基壇前面に石段と欄干を設ける極めて丁寧な手法を取っている。

この、お江の五輪塔は、お江の子の駿河大納言徳川忠長が1627(寛永4)年に母の一周忌に際して造立したものである。お江は没後、江戸の増上寺で荼毘にふされて埋葬されるが、その荼毘の時の火は高野山奥之院の火(おそらく奥之院の消えずの火か)により点火されたと高野山文書は記している。このことは、お江の遺言によりなされたことではあるまいか。お江は相当の大師信仰者であったことが指摘される。そうであったからこそ、忠長は高野山でも一番大きい石塔の造立をしたものと考える。

また、お江の五輪塔の造立者が嫡男の家光でないことにも注目される。お江は忠長を溺愛したとされ、忠長もお江を慕っていたと『徳川実紀』などは伝えているが、事実そうであったことも奥之院の五輪塔は伝えている。

それでは、高野山と大名家との関係は、江戸時代初期前後から始まるのかといえば、そうとは断定できない。確かに、徳川家康以降の将軍家より大名として取り立てられた家ではそうともいえるが、その大名家が室町時代へとさかのぼることができる場合は、少なくともそこまでは高野山との関連があった可能性が考えられる。

これも一例を挙げると、高野山蓮華定院と戦国武将の真田家との関係は有名であるが、その両者の始まりを調べると、既に室町時代中頃にはあったことがわかる。それを証明するのが1527(大永7)年、海野棟綱発給の古文書である。「高野山上之事、信州海野知行分、僧俗共一心院蓮華定院可為宿坊、為後証進一筆候」(蓮華定院文書)とある。

つまり、この文書は領主である海野棟綱が支配する領地の信州海野の僧侶や領民が高野山へ参詣した時は、蓮華定院への宿泊を約束したもので、これを宿坊証文という。海野棟綱は、真田昌幸の祖父と比定される人物である。

奥之院の大名墓はいわば氷山の一角であると言っていい。高野山は単なる大名家との結び付きだけではなかった。大名が支配していた地域とのネッワークがあった。高野山側も参詣人を単に待っているだけでなく、配札といって宿坊証文で約束された大名家の領地の領民へお札を配ったこともわかっている。その見えない部分の大きさにも思いをはせねばならないことを触れて本稿をおく。

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