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2024宗教文化講座

贈与と救済 ―「受け取る」存在としての人間(1/2ページ)

関東神学ゼミナール講師 大川大地氏

2021年9月21日 11時09分
おおかわ・だいち氏=1990年生まれ。山口県出身。京都、東京の大学を経て、現在、関東神学ゼミナール講師。ウィーン大プロテスタント神学部博士論文候補生。専門は新約聖書学。論文「キリストを着る」(2020年)が第16回涙骨賞論文部門奨励賞を受賞。

「贈与があるためには、相互関係、返礼、交換、反対贈与、そして負債がないようにしなければならない。もし相手が、私が与えるものを私に返すなら、私に借りを作るなら、あるいは私に返さなければならないのであれば、贈与はなかったことになるだろう」。フランスの著名な哲学者J・デリダはかつてこのように述べた(『時間を与える』1991年)。

趣旨は明瞭だ。すなわち、「贈与」とは読んで字のごとく、人になにかを「贈」り、「与」えること(give)なのであるから、本来そこには人から「見返り」としてなにかを「もらう」こと(take)が介在する余地があってはならない。もしギブ・アンド・テイクの関係が贈与によって生まれるのであれば、それはもはや「贈与」ではなく「交換」だということである。与え手がお返しを期待しない贈与がある(「お返しはご辞退申し上げます」)と反論することは簡単であるが、お返しは常にモノのかたちを取るとは限らない。

かたちのあるモノとかたちのないコトが交換されることはある。与え手が何らかの見返りを期待しつつ贈与を与えるのであれば、あるいは受け手が贈与を受け取ることによって何らかの負い目や義務に拘束されるならば――どちらも私たちが日常生活で非常にしばしば経験することである――、その瞬間、贈与は交換経済の循環の中に消え去ってしまう。私たちがふつう「贈与」だと理解しているものは、デリダに言わせると実は「交換」である。つまり、私たちは「贈与」と「交換」を混同している。「贈与は贈与ではない」というデリダ一流のアポリアの意味はおおよそこういうことである。

ところで、使徒パウロは新約聖書「ローマの信徒への手紙」3章23―24節で次のように言う。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(以下、新約聖書からの引用は新共同訳)。人が「義とされる」とは、人間が神から義しい存在と認められるということで、神の救済行為を指す。パウロは、その救済が人に「無償で」与えられると言う。ここで「無償で」と訳されているギリシア語はドーレアンといい、これはドーレアという名詞を副詞にしたものだ。ドーレアは「贈り物」を意味する。すなわち、救済とは神から人に与えられる「贈与」である。そうである以上、それは「無償で」――何の「見返り」もなしに――与えられるのでなければならないというのである。

では、一体なぜパウロは、神の救済を「贈与」として表現するのだろうか。私見ではおそらく、彼にとって救済が「交換」ではあり得なかったからである。

上に引用した発言にパウロは次のように続ける。「神はこのキリストを立て……供え物となさいました」。「供え物」(ヒラステーリオン)とは――この語でパウロが念頭に置くのが、ユダヤ教の贖罪日の祭儀なのか、あるいはギリシア・ローマ世界の祭儀で神々の怒りを宥めるために捧げられる「奉納物」なのかについては論争があるが――、強く祭儀的な概念である。

パウロが生きた紀元1世紀の古代ギリシア・ローマ世界の都市部には、様々な神々の神殿が多数あり、その神々に対する「犠牲祭儀」は日常の光景であった。「犠牲祭儀」の特徴のひとつは間違いなく神(々)と人間の間に成立する「交換」である。思想家・柄谷行人がM・ウェーバーの宗教社会学を解説しつつ言うように、祭儀とは、「超越的・超感性的な何かへの、互酬的な関係」のことである(『世界共和国へ』2006年。なお柄谷は「呪術」の語を使うが、ウェーバーの議論は、あらゆる宗教祭儀が呪術の形態を脱していないと指摘するものである)。そもそもなぜ人は神(々)に何かを奉納するのだろうか。私たちの日常の宗教生活に溢れる「五穀豊穣」「家内安全」「商売繁盛」などを願った奉納物を思い返してもらいたい(キリスト教にもそのような奉納物はある)。

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