神智学はなぜ仏教史のテーマになるのか(2/2ページ)
武蔵野大准教授 碧海寿広氏
こうした歴史的経緯を知っておくと、父から神智学の知を受け継いだ今東光や、その弟子である寂聴さんが世に広めた「仏教」の見え方も、少し変わってくるかと思います。
2021年は、日本における神智学のアカデミックな受容の画期として、後世に語られることになるかもしれません。学術的に重要な、数多くの神智学関連の著作が発表されました。
まずもって言及すべきは、吉永進一氏の『神智学と仏教』(法藏館)でしょう。神智学の名を冠した、おそらく本邦初の学術的な書物です。日本における神智学の歴史、その歴史のなかで仏教者たち――浄土真宗の青年仏教徒や、平井金三という禅と関わりの深い「総合宗教」論者など――の果たした役割、これと関連の深い鈴木大拙の業績など、吉永氏の比類なき博覧強記が遺憾なく発揮された論述が繰り広げられます。
また、同書に先立ち、杉本良男氏による長年の研究の集大成的な著作『仏教モダニズムの遺産―アナガーリカ・ダルマパーラとナショナリズム』(風響社)が刊行されました。現代スリランカの仏教ナショナリズムの系譜をたどるため、そのルーツであるダルマパーラの思想と活動を丹念に検証した本ですが、スリランカ近代史における神智学協会やオルコットの影響の大きさが、随所で確認されています。
あるいは、末木文美士氏や安藤礼二氏らによる座談を収めた『死者と霊性―近代を問い直す』(岩波新書)では、近代の哲学や思想を再考する上で神智学への注目が欠かせないことが議論され、堀まどか氏の『野口米次郎と「神秘」なる日本』(和泉書院)でも、日本の芸術文化(俳句など)がアメリカに進出する上で、神智学のような神秘思想による地ならしがいかに大事であったのかが解読されます。上野庸平氏の射程の大きな論文「近代フランスにおける仏教受容の一様相―神智学、アレクサンドラ・ダヴィッド=ネール、ロブサン・ランパ」が涙骨賞を授与されたのも、上記した複数の書籍の刊行と前後しての出来事でした。
特に吉永氏の『神智学と仏教』に顕著ですが、こうした神智学への学術的な関心の高まりは、仏教史研究における近代への熱視線と、明確に呼応したものです。『中外日報』の真面目な読者には周知のことかと思いますが、現在、近代仏教つまりは19世紀以降に輪郭を整えていく新しいタイプの仏教に関する研究が、未曽有の質量で飛躍的に進展しています。吉永氏はその主要な研究者の一人であり、氏の著作は、神智学と近代仏教という、現在に隆盛する二つの研究分野の結節点として位置付けられるでしょう。
近代仏教には各種の特徴がありますが、最大のポイントは、グローバル化です。一般に、ヒトやモノや情報の世界的な交流や連結によりグローバル化は展開しますが、特に精神や思想の地球レベルでの相互交渉や一体化の進行が、近代仏教の形成を導きました。アジアで伝承されてきた仏教の、キリスト教(プロテスタント)との出会い、西洋思想や芸術概念の吸収、近代科学との接合、マルクス主義との対話、そして、神智学の受容――。近代仏教は、そうした精神や思想のグローバルな接触や融合、葛藤や対決から生まれてきた仏教です。
とはいえ、そうした近代仏教の特徴が鮮明になってきたのは、日本で言えば、ここ十数年の話でしょう。それ以前には、近代仏教は「日本仏教史のうち明治から敗戦あたりまで」といった浅薄な把握のされ方をしてきたように思います。しかし、インターネットさらにはSNSの発展と普及によって、精神や思想の地球規模での交流と一体化が過激に急速に進み、こうした社会状況が、近代仏教の本質を誰にとっても見通しやすくしました。
そして、仏教をグローバルな次元に引き寄せた最大の推進力が、神智学にほかなりません。近代の仏教史を考える際、神智学が不可欠のテーマとなる理由がここにあります。