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2024宗教文化講座

語り継がれるもうひとつの神武天皇陵(1/2ページ)

成城大教授 外池昇氏

2024年2月29日 09時10分
といけ・のぼる氏=1957年、東京都生まれ。88年、成城大大学院文学研究科日本常民文化専攻博士(後期)課程単位取得修了。博士(文学)。2009年から現職。著書に『天皇陵の誕生』(祥伝社新書)、『検証天皇陵』(山川出版社)、『天皇陵―「聖域」の歴史学―』(講談社学術文庫)など。論文多数。
神武天皇陵3カ所

江戸時代において神武天皇陵とされた地が3カ所あったことは、すでによく知られている。つまり、元禄の修陵で幕府によって神武天皇陵とされ文久の修陵でその管理を解かれた大和国高市郡四条村の「塚山」(現綏靖天皇陵)、同じく元禄の修陵で神武天皇陵に準じるとされ文久の修陵に際して孝明天皇の「御沙汰」により神武天皇陵とされた同郡山本村の「神武田」、そして本居宣長・蒲生君平等が神武天皇陵と主張した同郡洞村の「丸山」である。洞村は当時畝傍山中にあった。ここで論じようとするのはこの3カ所をめぐってのことである。

「塚山」

まず「塚山」から始める。「塚山」が神武天皇陵とされたのは、元禄10(1697)年に奈良奉行所の役人に四条村庄屋久兵衛等が「字塚山」を「神武天皇御廟」と答えたのによる(「元禄十丁丑山陵記録」)。他にも「塚根山」「福塚」との名称が、津川長道『卯花日記』(文政12〈1829〉年)にみえる。

「神武田」

次いで「神武田」をみる。『南都名所集』(延宝3〈1675〉年)は同地について「御陵のしるしの石あり。所の石は神武田と云」とし、そこに跪いて拝む人の図を載せる。そして松下見林『増補前王廟陵記』(元禄9〈1696〉年)は同地を「民呼びて神武田と字す」とし、あわせて「糞田」「暴汚の所為」等として当時の「神武田」の様子を描写する。ここで注目されるのは、「神武田と字す」とはいうものの「民」がそう呼ぶとすることである。そして細井知慎『諸陵周垣成就記』は元禄12(1699)年の「叙」で、「田の中にて知る人なし、所の人じぶの田と呼侍し、神武の転したる誤なり」とし、「じぶの田」との名称は「神武」が変化して誤ってそうなったとし、かつ同地を「じぶの田」と呼ぶのが近傍に住む「所の人」、つまり近くで生活する人であるという。蒲生君平『山陵志』(文化5〈1808〉年)は「神武田」について、同地が「美賛佐伊」ともいわれそれが「ミササキ」つまり陵が訛ったものとする。ただし蒲生君平は、同地を神武天皇陵としたのではない。奈良奉行与力中条良蔵『御陵并帝陵内歟与御沙汰之場所奉見伺書附』(安政2〈1855〉年)は、「神武田」とされる所は「字ミサンサイ」と「字ツホネカサ」から成るとしつつ、これを合わせて「神武田」というのは「下方」(身分の低い者)であるとする。そうであれば「神武田」「じぶの田」との名称は、例えば「検地帳」等に載るような公的な地名一般とは少なくとも何らかの違う点があるということになる。

「丸山」

そして「丸山」である。竹口栄斎『陵墓志』は「再ヒ往て尋覓(探し求める)ニ山本村ノ領ノ保良(洞村)ト云フ所ニ段々ニ築タル岡アリ」とし、かつそこは「字カシフ」とされていたので同地を神武天皇陵と確信し(『古事記』は神武天皇陵について「畝火山の北方白橿尾上にある也」とする)、あわせて「土俗今御陵山ノ名ヲ知ル人ナシ」ともいう。本居宣長『玉勝間』「三の巻」(寛政7〈1795〉年)は「そは畝火山の東北の方の麓につきて、天皇宮といふ祠のある山也、そこに字を加志といふ所あり」とするが、これは竹口栄斎の説を受け継いだものである。蒲生君平『山陵志』は「御陵山」と呼ばれているとして同地を神武天皇陵であるとした。津川長道『卯花日記』文政12(1829)年4月26日条は、「保良(洞)村」に赴き同村の人びとの案内で「白土のハナ」「岩鼻」に行き着いて「神武天皇御ン(陵)ハこゝなりとさだめ侍りぬ」とした。北浦定政『打墨縄大和国之部』(嘉永元〈1848〉年)は神武天皇陵について「畝火山の東北を洞村と云、其村の上にあり、字丸山と与ふ」とした後で、蒲生君平『山陵志』が同地を「御陵山」とすることを引き合いに出し「今其御陵山ヲ尋ヌルニ知人ナシ」とする。

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