死を自分事として語る 変化の予兆か?注目
東京科学大教授 弓山達也氏
4月11~16日、東京・渋谷のヒカリエで「死をもっとポップに、終活を再定義する」を掲げ、デスフェスが開催されている。今年が3回目という企画の初日、はじめて足を運んでみた。
会場に着くと棺桶が置かれ、その向こうのトークセッション会場は60席が埋まり立ち見が出る盛況だった。トーク内容は広い意味での終活に加え、学術、環境、医療・看護、AIなど幅広い話題が提供されていた。周りのブースでは尊厳死、手元供養、宇宙葬などの展示があり、そこにも多くの人が集まっていた。予想以上に会場も人々の表情も話題も明るく、よく言われる「管理」「隔離」「記号化」された死とは、おおよそ異なり、死を自分事として大っぴらに語る人々の姿に戸惑いさえ覚えた。
同じような戸惑いは今年に入ってから2回あった。一つは2月の日本いのちの教育学会だ。今年の研究大会は中学校教諭でグリーフサポート団体代表と天台宗僧侶が運営にあたった。そのため大会全体が自死、グリーフケア、仏教の色彩が濃い特徴ある大会となり、参加者は通常の倍以上の160名を超えた。
いのちの教育は、特に公立学校では、宗教はもちろん、死や病いより、生きがいや心の成長など、この世での生のあり方に焦点が当てられてきた。こうした経緯もあって、今回は27回の大会の中で画期をなすものだったといえよう。もちろん対象を小中学生とした場合、自死や仏教をどう伝えるかという課題はあるだろうが、宗教研究からいのちの教育に関心を寄せる筆者としては、大いにその可能性を追究してみたい。
もう一つは先月、都内で死生学を学ぶ大学院生を対象に村上浩康監督「あなたのおみとり」上映会があった際のことだ。会の終了後、交流会となった時、参加者が自らの肉親の介護や別れの体験を語りつつ自己紹介をしている姿が印象的だった。もちろんそういった経験があっての死生学への進学だとは思っていたが、その語りの大らかさは、デスフェスのそれと通じるものがあった。デスフェス事務局の方に声をかけられ話をしたら、死生学専攻ということで、妙に合点がいった。
戸惑いついでに思い出したこともあった。20年以上前、スピリチュアリティー関連の企画を練る際に誰かが「これからのテーマは死だ」ということを言い、一同が沈黙した。当時のスピリチュアリティー研究者は新宗教研究を経てきた者が多く、何となく現世中心の生命観やスピリチュアリティー自体を生きる意味の探究ととらえていたため「死」というテーマに唐突感を覚えるのは自然のことだった。その後、2007年から死亡者数が出生者数を上回り、多死社会と言われるようになった。相次ぐ災害やコロナ禍も死を身近に考えるきっかけになった。
死を自分事として語ることは、裏返せば死や生を自分で管理できるという自己責任・自己決定の論理の表れでもあろう。大学で生命倫理のディベートを担当しているが、自己決定・自己責任の立論ばかりだ。かかる風潮にどう向き合うのか、これが一時的、表面的なものか、それとも大きな変化の予兆か、見守っていきたいと思う。









