思い受け止め伴走する 真に「身になる」とは(5月20日付)
ケアとは何かという専門家たちのトークセッションで「人の身になる」ということと意思決定支援との関係について、宗教者による支援活動も含めて多層的な論議が展開された。
あるケアラーの「介護支援の過程で自分の価値観を前面に出すとうまくいかない」との経験談が議論のきっかけ。特に被支援者の意思表示が困難な場合、心中を探り、希望を実現させていく際に「この人はこう考えるはず」「これが最適のはず」と支援者が勝手に類推判断せず、相手の思いを尊重し寄り添うべきだということ。それが「身になる」という姿勢だ。
この「身」は、日本社会では体と心とを共に意味する概念だが、前記の「類推」ではなく真に「身になる」のはなかなか困難だ。
福祉や医療だけでなく例えば災害支援や貧困者支援でも、実際として献身的に人を支える活動をしている宗教者が、本質的な意味で「完全に相手の方の身になることなどできない」と自覚、認識しているケースが結構多い。
むしろ多様な個々人の揺れ動く心の内は、本当は他者からは理解すべくもなく「分かったつもり」で「身になっている」と勝手に思い込まないことが大事だと強調する。
ある法律家はトークで、成年後見で被後見者の言う主張が「よく分からない」とそこで仕事をストップしてしまう後見人が結構いることを紹介したが、ここで重要なのは「完全には分からない」ことを前提に「できるだけ身になる」寄り添い方だろう。
宗教者も関わるスピリチュアルケアでは「課題解決型」より「伴走型」をという考えが知られる。
本人の意思がよく分からないといった場合「合理的思考」による課題解決の“ゴール”に向けて理詰めで支援していくのではなく、終着点は特に定めずとも、その人の流動的な思いに沿って共にゆるゆると進む。解決よりむしろ、その並走過程に意味があり、その中でゴールが見えたり、当初とは違ってきたりするのだ。
セッションでは、行政書士から「自分と依頼者とは違う景色を見ていると思った方がいい」、長年多彩な現場を経験した看護師からは「患者さんは理屈じゃなく、まず快か不快かです」と指摘があった。あるいは「つらい状況で、初対面の人からいきなり真正面から握手を求められても困る」との声も出た。
事情によっては「斜め」から「そっと」であろう。もちろんケースバイケースだが、宗教者の取り組みにも参考になりそうだ。









