水俣病の現場から 苦難に宗教が果たす役割(5月27日付)
公害問題の「原点」と言われた水俣病が地元医師によって公式確認されてからこの5月で70年だ。現地の熊本県水俣市で患者たちを支え続ける相思社の「歴史考証館」を訪れると、今もなお苦しむ被害者たちが歩んだ年月に加え、この問題に関して宗教が果たした「光と影」が認識される。
考証館そばの、被害者たちが寄り合う家の座敷には簡素な仏壇がある。内には数十人の位牌が安置され、水俣病を告発した学者宇井純氏のものもあるが、白木で手作りの質素なものばかりだ。
原因物質の有機水銀を含む廃液を長年垂れ流し続けた加害企業チッソの“城下町”とも言われた水俣では会社に歯向かうことがタブー視され、患者らは“村八分”のように白眼視され続けた。無理解で「業病」との偏見もあり、そのため仏壇の前に身を寄せて祈り、励まし合ってきたのがこの場だ。
だが、確認から12年も後に国がようやく公害病認定をし、被害者が起こした損害賠償請求訴訟で、全国からの支持も受けて原告勝訴の見通しが強くなると、市内のある教会が「患者の支援をしないと決めた」との見解をわざわざ発した、と相思社の理事が明かした。会社幹部がその教会の信徒だったという。
「小さくされた人々」に寄り添うべき宗教として、あってはならないことだが、一方でその教会に通う婦人たちは信仰に基づき、後遺症に苦悩する患者たちに助けの手を差し伸べた。
後年、有機水銀の汚泥が沈殿した湾内を、汚染されたおびただしい生きた魚ともども埋め立てて造成された広大な臨海公園。そこには、劇症で死亡した人たちを含むいのちへの患者らの思いを込めた慰霊碑が建立された。周囲にはやはり患者や支援者が祈りの気持ちで彫った石仏が数多く並び、訪れる人が合掌する姿が見られる。
水俣病を巡る様々な運動、論議や考察の広がりは「現場哲学」の源流ともなった。その闘いの中で『チッソは私であった』との著書を出した漁師の緒方正人さんの、公害を生んだこの社会の在り方に自分も無関係ではあり得ないという姿勢には、まるで宗教にも通じるような深みがある。
地元で伴走し続け、『苦海浄土』を著した作家石牟礼道子さんは運動の目指すものを「じゃなか娑婆(もうひとつの世間)」と語った。それは、苦難に満ちた現世からの逃避では決してなく、自己をも含めた紛れもないこの世を根本的に改造することにほかならない。宗教もまた、そのような「大きな物語」を描くことができるはずだ。








