「疎死社会」のいのちの意味 死者との関係がはらむ深淵
東京科学大教授 弓山達也氏
本紙で報じた通り、先月公表された『2026年 築地本願寺不安調査』は、「多死社会」と呼ばれる時代に個々人が死と向き合う機会をむしろ失いつつあるという逆説を浮かび上がらせた。築地本願寺はこの状況を「疎死社会」と名づけた。
例えば「死と向き合う機会・時間や経験はあまりない」と答えた人は4割に達し、若年層では約2割が「墓がない、またはどこにあるか知らない」と答えたという。死が日常から遠ざけられることで、死への理解や心の整理がなされず、恐怖や不安だけが残り、それが現代人の漠然とした不安にもつながる、という指摘である。
一方で別の潮流もある。前世紀末から「葬送の自由」が唱えられ、葬儀や墓、死後のあり方を自ら選び、生前に整える傾向が強まった。納棺体験も広がり、デスカフェやDeathフェスでは、従来ならためらわれた死の話題が公然と語られる。人びとは死を疑似体験し、自分の死を自分で管理しようとする。
死を遠ざける「疎死」と、死を身近に引き寄せるこうした動向は、一見すると正反対である。もちろん、築地本願寺の意識調査と変化を先導する実践とでは、対象層も異なる。それでも両者は、死を前にした「いのち」を自分の意のうちに置こうとする発想で通じる。管理できない死は忌避し、関心の外へ置く。他方、管理可能と思われる死は手元に引き寄せ、計画し、選択する。いずれにも、いのちを自らの手で整えたいという志向が見えるのだ。
そんなことを考えながら大阪・関西万博で注目を集め、現在は東京・高輪で開催されている「いのちの未来+」を訪れた。石黒浩大阪大学教授がプロデュースする本展はアンドロイド、映像、演劇的な空間を通じ、「人間とは何か」「いのちとは何か」を問う。
老い、身体の限界、死といった避けがたい現実を、技術によって拡張し、記憶を保存し、生死さえある程度制御できる50年後の未来が示される。アンドロイドは問う。死を前にして、いのちを全うするのか、記憶をアンドロイドに引き継ぐのか。そもそも、いのちは身体に宿るのか、記憶にあるのか、それとも遺族との関係の中にあるのか、と。
問いは刺激的で、観る者に省察を促す。しかし同時に、どこか既視感のある平板な議論にも感じられた。結局、いのちは選択可能なデータとして扱われてはいないか。その視点からは、喪失の痛み、赦し、罪責、沈黙、祈りといった、死者との関係がはらむ深淵には届きにくい。また、私たち自身が生み出した技術の限界や、その不可逆的な進行へのためらいも、ほとんど見えてこなかった。
冒頭の疎死社会の報告で印象深いのは、死と向き合う経験が不安への耐性を育み、死の意識が生への活力を生む、という指摘である。いのちが自分の意のままにならないと悟るとき、人は小さな自分と向き合う。そして他者、自然、死者、さらには自分を超えた何ものかとの関係に目を開くのではないか。いのちの意味は、管理や選択の中だけでなく、その関係の深みにおいてこそ現れるのだ。








