コロナ禍から学ぶ 対面状況のアフォーダンス(10月11日付)
コロナ禍がようやく収まりを見せ、宗教活動を含め、多くの社会活動に以前のような活気がもたらされ始めた。そうした中に「コロナが終息しても、コロナ以前の状態には戻らない」といった言い方を、よく耳にするようになった。
会議や集会などは、コロナ禍の中で新たな形態が生まれた。例えば「ズーム」は、2013年にサービスが開始された。日本ではコロナ以前は知る人もわずかだったが、20年代には企業や大学などで広く用いられるようになった。ほかにも「チームズ」などウェブ会議用のツールが多く広まった。
これらは今も使用され続けている。その意味で、コロナ以前には戻らないという言い方は当てはまる。しかし、技術面だけを言っているのではなかろう。対面とオンラインのそれぞれが、人間に異なった作用をすることが広く認知されるようになった。各種の集まりの持つ意味は、形式だけでは測れないもっと奥深い問題がある。
宗教界もオンライン方式を経験したことで、対面でなければ伝わらないことは何かを改めて考える人が増えたようだ。当たり前と思っていたことへの新たな気付きである。特に重要なのは教会、寺院、布教所、道場等の宗教施設で、人々が集う際に無意識のうちに得られているのは何かである。
これはアフォーダンス理論が参考になる。アフォーダンスは環境が人間にもたらす無意識的な影響の理解のため、「与える」「提供する」を意味する英語「アフォード」を基に米国の心理学者ギブソンがつくった語だ。
それぞれの宗教施設の形状や室内の配置は、宗教の集まりにふさわしいものになっている。集まった人が椅子に座るのか、畳に座るのか、どんなふうに互いが向き合うのか。それぞれの宗教施設の造りによって、集まった人が得られる感覚は異なり、自然と誘発される行動にも違いが出る。滑らかで適当な高さの台は、座ることへとアフォードする。車座は互いの顔を眺めることをアフォードする。
オンラインでの集まりでは失われてしまうアフォーダンスが、対面の集まりには潜在的に存在している。対面状況で得られる何が大切であったか考えるきっかけを、オンラインのみの集まりを余儀なくされた経験が与えた。それを考えることは「コロナ以前には戻らない今の」状況に積極的に向かい合う姿勢につながる。対面の集まりの場は多様なアフォーダンスに満ちている。注意深くあれば、集まった人たちが無意識に発するメッセージもつかめる。集いの場から得られるものも豊かになろう。