問われる「当事者性」 障がい者問題描く映画で(12月6日付)
相模原市の重度障がい者施設「津久井やまゆり園」で入所者が殺傷された事件を題材にした映画「月」が論議を広げている。事件を単に追わず、犯人は決して飛び抜けて特異でなく人の心には「役に立たない者」の排除という優生思想の芽が多少なりとも潜むという指摘をテーマとするドラマだ。
ごく「普通」ながら後に凶行に走る施設の男性職員が主人公の女性職員に「障がい者はいらない」、妊娠した女性の出生前診断も絡めて「あなたも、普通の子供じゃなかったら嫌でしょ?」と口走る。だが同時に、「見たくない現実から誰もが目をそらしている」などと一面では正しさを含む台詞が、悲惨でどろどろした面もある人間の現実をよそに口先の美辞麗句を並べるような態度を指弾し、観賞者に鋭い刃を突き付ける。
障がい者問題に限らず、いのちが絡む様々な社会的問題で「絵空事」のうそをつくな、現実に向き合って考え行動せよという主張は間違ってはいない。監督は職員の役を「共感を抱くように作った」といい、誰の中にも潜む危険性の芽に「人ごとじゃない」と気付かせる製作手法としては至極全うだ。しかしである。それまで「きれいごと」で生きてきた職員が施設の「現実」に直面して考えを転換する過程の描き方には強烈な違和感があると言わざるを得ない。
「現実」の一つは、居室に鍵を掛けて隔離されている障がいの重い男性患者。患者は室内で暴れ、ある時糞尿まみれで尋常ではない行為を続けているのを目撃した職員は衝撃を受け、その場を去るのだ。「おぞましい!」と言わんばかりのシーンの描き方である。
だが、当たり前だがこの患者も人間だ。彼の家族ならこういう時に「おぞましい」と逃げるだろうか。映画のシーンを障がい者自身が見たらどう感じるだろうか。他の「明るい」入所者に比べてこの患者は人格がほとんど描かれていない。このシーンで職員の頭の中の「おぞましい」感情に共感すれば、彼が障がい者への嫌悪に転じ排除に至るその先にまで「共感」してしまう危惧を拭えないのだ。
「人ごとではなく当事者たれ」という映画の指摘が映画自体にも当てはまってしまっているのではないか。重度心身障がい児を育てる親の団体代表の母親は、そもそも施設職員ならこういう状況にも歯を食いしばって向き合う覚悟を少しでも持っているのが普通ではないか、と語る。障がいのある義姉を持った相模原のある寺院住職は「役に立つかどうかで人間を区別する社会を変えねば」との思いで事件犠牲者の供養を続ける。