私と私たち
釈尊は誕生直後に七歩歩き「天上天下唯我独尊」と発したとされる。現代日本の仏教界では、この言葉について「釈尊は決して、自分一人だけが尊いと言ったわけではない」と説明されることが多いが、原典を参照する限り、そのような解釈は無理がある。単数と複数を明確に区別するパーリ語では「私」は一人称単数でしかあり得ない◆日本では「私」と「私たち」の区別を明確にせず、曖昧に物事が語られることがままある。「唯我独尊」の解釈も、日本語的曖昧さの産物なのかもしれない◆しかし、「私」は縁起の中で生じている存在であり、孤立したものでも、固定的なものでもない。日本的な言語感覚は、むしろ仏教の世界観に近いともいえる◆思えば、大乗仏教とは「私の悟り」について説く初期仏典を、一人称複数で捉えなおす運動だったと言うこともできるのではないか。そのような視点に立つと「唯我独尊」を「私たちは皆平等に尊い」と解釈することは必ずしも間違いとは言えなくなる◆東日本大震災から15年を迎えた今日、いまだ癒えることのない一人一人の「私」の苦しみや痛みに寄り添いつつ「私たち」が共に支え合いながら生きていく地域を復興させていくためにはどうすればいいだろうか。課題は山積みだが、お互いの尊さを認め合いながら共に未来を築いていく道を歩きたい。(奥西極)







