ふつうの国とは 重要なのは対話による外交(4月15日付)
「ふつうの国になる」との高市首相の宣言から現在の世界情勢の中で考えさせられるのは、戦争責任を背負い続けて敗戦国の屈辱に生きるのではなく、他の多くの国と同様に平時から武力を保有し、自国への脅威があれば反撃のために武力行使もできる国になる、ということについてである。だが、「ふつう」の意味するところは曖昧だ。いかにも自国が異常な状態にあるかのような自己認識に誘われるが、よく考えると、武力を持つ「ふつう」の国になることは、武力衝突が起きた際は国民が犠牲を強いられる危険を覚悟しなければならないことを意味している。
武力は戦争の抑止力となるといわれるが、果たしてそうか。かえって戦争の脅威が日常化することではないのか。元外務官僚で著述家の亀山陽司氏は、「核の抑止力が利いていれば国家間の大規模な戦争は起きない」という認識は、核大国ロシアによるウクライナ侵攻で崩れたと指摘している。ロシアと対峙するNATO(北大西洋条約機構)の核の傘はウクライナの後方支援で機能せず、ウクライナ戦争を抑止できなかった。
ロシアは核兵器の使用をちらつかせて何度も脅しをかけているが、現状では戦術核は使用されていない。その意味では核戦争を抑止していることは確かだが、通常兵器を用いた戦争までは抑止できない事実は明らかである。問題はその先にもある。ロシアによるウクライナ侵攻以降、日本を含む各国は防衛力強化と同盟強化へ傾斜している。国家レベルで対立する相手がいるとき、同盟強化によって外交的に対応しようとする姿勢が危険であることは歴史が証明してきたと亀山氏は指摘する。実際、同盟関係を結ぶことが戦争の抑止にはつながらなかったことを、二度の世界大戦から私たちは学ぶことができる。
武力を手段としない平和主義や非暴力の主張は、非現実的な理想主義として否定的に受け止められがちである。しかし武力によらない平和主義を掲げて他国との外交関係を深め、相互交渉を続ける努力を平時から積み重ねることこそが人々の心を動かす現実的な力となり、戦争の脅威を未然に防ぐ重要な働きとなるのではないか。
外交とは粘り強い対話を積み重ねることで相互不信をなくし、協調的な関係を構築する努力に他ならない。国家間の対話の前提となるのは首脳同士の人間対人間の対話である。安全保障にとって最も重要なのは、対話を基軸とした外交努力によって「有事」を回避することだ、という亀山氏の言葉を我が国への警鐘と受け止めたい。







