言葉の宗教
宗教を身体と言語という問題系で見る場合、真宗は極論すれば「言語に全振りした宗教」という性格を持っている。自力無功を説き、また「聞法の宗教」でもある◆仏が衆生救済の願を起こしたいわれやその救済原理の本質を言語的思惟によって追究し、言語によって表現し、聞き開く。真宗が近代と相性がよかったのは、その大衆性に加えて言語に基づく論理性や合理性と親和的であったからと言えるかもしれない◆他宗派に比して法話者の育成にリソースを割くのも言語を生命線とする宗教故だろう。法話者養成の伝統と歴史は、教えを適切に言語化するための不断の努力といえる◆無論、現実には真宗も身体性とは無縁ではあり得ないし、その宗教的真理を言葉で表現し尽くすことは不可能だ。言語は意味を明確にするのと同時に限定する。禅宗のように詩(漢詩)を用いることで言語の限界を超えようとする習慣は真宗では一般的ではない。真宗教団が歴史的に異安心問題に敏感なのは恐らく言語が持つ分別機能に関わっている◆そうした限界を知りながらも言葉に依る。故にこの宗教で強く求められるのは「言葉を大切に扱う態度」だろう。言語による表現や思惟は、その機能の限界故に、原理的に永遠に失敗し続ける。それでもなお言葉に依る。そこに真宗門徒が歩む仏道の厳しさや重さの一端があるように思われる。(池田圭)