文明の効用 利便性から何が得られるか(12月10日付)
与えられた肉体的機能を駆使して活動する能力を持って生まれてきた人間は、その能力を代行する技術を発明開発し、余った時間と力を新しい活動に使う生活を我が物とした。その技術力は、例えば本来持っている機能が衰えた時に、それを補うものとして活用される。私たちの日常生活は、こうした文明の利便性の上に成り立っている。だが、文明の効用を追求することが、どれほど人生の生きがいに通じているのかを時に立ち止まって考えてみることも必要ではないだろうか。
文明の効用は利便性にある。あるいは利便性や効率性、快適性を追求することで文明は発達してきた。身の回りの家電製品、自動車や列車、携帯電話などの通信機器等は便利な生活をもたらし、人や物を遠くまで運び、世界と情報交換することを可能にした。無人航空機のドローンが軍事技術の民生転用であるように、壮大な現代文明の背景に戦争があることも忘れてはならない。
本来持っている能力が働いている間は自分の力を使って生活すればいいようなものだが、科学技術で代行される文明の利便性を一度味わってしまうと、それを手放すことはできなくなる。かといって文明の発達で人間の本来的な能力が後退したわけではない。長い人類の歴史が物語るように、文明がもたらす新たな環境に適応するための調整にも人間は不断の努力を重ねてきた。
こうした問題を身近な生活の上で考えるとき、様々な状況が見えてくる。例えば足腰の衰えた人にとって、高い山の上にある寺社に参詣するために長い階段を上ることは困難であり、不可能となる。それならエスカレーターを設置すれば、誰でも大した苦労をせずに参詣できるだろう。多くの人に分け隔てなく利益を施すという宗教的な目的意識からして、文明の恩恵を施すことは極めて有益な社会貢献であり、利器大いに活用すべし、ということになる。
だが一方で、参詣すべき聖域が山上に構築されたのには理由があるはずだ。それは足腰の不自由な人を拒むためではなく、容易に近づくことのできない場所にこそ人が求めるべき意味が存在するという宗教的な含意として理解されるものではないか。由緒のある寺社は、急な階段や険しい道が続く参道にエスカレーターを設置すべきかどうかという現代的な課題を抱えている。しかし利便性のみを基準にして答えを求めても正解が得られるとは限らない。利便性から何が得られ、何が得られないのかを改めて考えなくてはならない。





