袈裟衣は心にこそ 社会の現場での僧侶の装い(6月19日付)
「僧衣を着て医療機関へ傾聴活動に行くと『坊さんが来るとは縁起でもない。まだ死ぬのは早いのに』と敬遠される」。宗教者の病院での支援活動が日常的になった今でもまだそんな話を聞く、と病床へ普通に活動に通うある住職が打ち明けた。状況はかなり変わってきているとはいえ、この問題の根は深い。
まずは、「袈裟衣から葬儀を連想する」という偏見が世間にあるからだというなら、なぜそんな「偏見」が生まれたかを顧みる必要がある。葬儀を含む法要などの法務以外で、日常的に僧衣を着た仏教者が様々な場所で人々に接し、支える活動をするのが以前から社会で普通であったら、そんな反応は起こらないだろう。
では今なおそういう状況下であることを前提に、どのような姿で医療現場へ赴けばいいのか。苦しむ患者らに接するのに、そもそも袈裟衣がいいのか。いわゆる「説教」に行くのでもなければ、病床で法要をするのでもないのだから、かしこまった法衣は不要だろう。
また本当に病床で患者らを支え、苦しみ悲しみを傾聴するためには、面会していきなり「辛いことはありませんか?」では全く通じない。例えば医療行為ではない身の回りの世話をするなどで気心が通じることが前提だ。実際に末期患者が暮らすホスピスでは、仏教チャプレンなど施設勤務の宗教者たちは「雑用係」を自任する。
ならば、当然に働きやすい服装が自然だろう。失礼にならない程度に例えば作務衣でも、病院の職員服でもいい。そもそも仏教的にはそれは作務であるかもしれないし、第一、袈裟衣を着けていなければ僧侶としての体面、アイデンティティーが保てないようなら、初めから現場へは出て行かない方がいい。「世間の寺離れ」を言う前に「寺の世間離れ」が問題だ、と少しでも世間に関わる仏教者は強調する。
当たり前だが、「宗教者らしさ」はその服装、外観にあるのではなく、教えと信仰に基づいた利他の行動にある。災害現場や地域食堂、困窮者支援など様々な現場で働く僧侶は、ジャージー姿で泥だらけ汗まみれになりながら、「袈裟を心に着けている」のがはっきり見て取れる。
ちなみに冒頭の住職は、檀家への月参りの帰りに病床を訪ねる際、略式の法衣であることも多い。相手には何の違和感もなく、「今日も檀家回りお疲れさま」と声さえかかるのは、それだけの深い付き合い、関係性が成り立っているからにほかならない。







