宗門大学が担う宗教リテラシー 「信教の自由」実質化のために
北海道大教授 櫻井義秀氏
龍谷大学の京都深草学舎で5月21日に創立記念・親鸞聖人降誕会法要が営まれ、私は記念講演の講師として参加した。「信教の自由を守るために今考えるべきこと」と題して、旧統一教会問題を概説し、信教の自由は国家によって与えられるものでも守られるべきものでもなく、市民が自らの力で育み、維持されるべきだと話した。
講演の序と結びで、「スッタニパータ」にある仏陀の慈しみの言葉として知られている次の文章を出させてもらった。
「一切の生きとし生けるものは幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。何人も他人を欺いてはならない、他人を軽んじてはならない」
私の考えでは、前半の文は諸宗教が何のためにあるのかという宗教の目的を示している。後半の文は信仰の態度である。仏陀の言葉だから仏教の脈絡でのみ意義があるというようなことではないだろう。宗教が人間社会に現実的に根ざすためには、ウェルビーイング(しあわせ)が生み出されなければならない。諸宗教がどのような崇高な理念を掲げたとしても、布教・教化や社会活動において他人を欺き、軽んじるようなことがあれば、信頼するに値しない。
信教の自由は、こうした宗教文化を足場としてとなえられなければ、ご意見無用を標榜する独善に陥るだろう。
ところが、日本では信教の自由を価値として語る際、政教分離によって国家が保障する人権、もしくは、個々人の思想信条同様に信仰も尊重されるべきという抽象的な定義でよしとされ、信念の中身や宗教活動の実質を評価することが避けられる傾向がある。いわゆる社会問題化する宗教が出現したときに、外形的な違法行為や不法行為だけが問題になる。
法制度としてはそれでよいにしても、果たしてこれだけで信教の自由が保障されるのだろうか。私は、宗教文化に根ざした良識や常識が育まれることなしに、信教の自由が実質化されることはないだろうと考えている。
この点において宗教立の学校が果たす役割は大きい。もちろん、私学であっても学校法人であれば、宗教的情操や宗教的知識の教育を特定の宗教的価値に基づいて一方的に行うことはできない。信仰者を輩出せずとも、生徒や学生が学校を卒業後に、宗教的価値や宗教の役割に一定の見識を有し、市民として良心を大事にする生き方をしてくれれば十分な宗教教育をなしたと言えよう。
宗教リテラシーを学ぶことによって社会問題化する宗教から身を守り、市民社会における信教の自由を実質化することが宗教文化教育の一つの目標となるのではないか。
私は大学教員としてのキャリアをキリスト教立短期大学から始めた。その後、三十数年国立大学で教えて改めてミッション・スクールの役割に思いをいたしている。日本にはミッションを持った多数の私学があり、信教の自由を守る砦になりうる。法曹人やメディア、一部の宗教者・宗教研究者だけでは信教の自由は守れない。広く市民の宗教文化教育の意義を改めて確認したい。